不況

鳩山不況 -- この世に無血革命などない

 今、私は史上最悪の経済状態に直面している。

 私のみならず、多くの日本人が今その事態に直面していることだろう。

 これが人が言うところの「平成維新」「平成革命」が人々に与えた影響だ。

 確かに革命である。

 世の中がひっくり返って、今まで真面目に働いて食えていた人々が食えなくなったのだから。

 それを無血革命のように言う人がいるが、とんでもないことである。

 世の中がひっくり返って血を流さない人がいない訳がない。

 まず、公共事業を止めればそこに携わって生活していた人々の生活は直ちに脅かされる。

 それを是としたのだから、民主党支持者たちは、矢張り人々の血が流れることを承知して革命を望んだことは間違いない。

 国民に痛みを押しつけた小泉政治はもう二度とゴメンだが、自分に痛みが来なければ、他人が受ける痛みには頓着しない・・・。

 まして、自分に痛みの変わりに「現金」が与えられるとすれば・・・。

 この大衆の考え方に合致したのが、今存在している鳩山民主政権なのである。

 増税もしかり。

 消費税増税はゴメンだが、自分に関係ない税金、たばこ税、環境税ならOKだ。まして、その人たちの払いのお陰で自分たちが増税を免れるなら・・・。

 その考え方が日本中に蔓延しているからこその「平成維新」なのである。

 日本には大きく分けて二つの相容れない階層が出来てしまったようだ。

 物を持つ者と物を持たざる者と。

 それは金持ちと貧民の二層ではなく、同じ庶民の中で、やや余裕がある層と余裕が全くない層とが対立する構図となっている。

 たとえば、自家用車を持たない人々は、自家用車を持っている人が増税に苦しんだり、その結果車を手放し自分たちと同じ立場になれば満足なのである。

 これは日本社会、そして日本経済に甚大な影響を与える。

 そして、又、増税し放題という状況を政府に与える。

 一時のカタルシスを味わい、あとは地獄が待っている。

 行き着く先は、持つ者も、持たざる者も、共に逃れられない地獄行きだ。

 民主党の提示する案は実に明解だ。

 たとえば医師の診療報酬だが、開業医は勤務医に比べて勤務時間が短いのに収入が多いのはけしからんと言い、結果的に収入が低い方へ均して「平等」を謳う。

 これぞまさしく共産主義的考え方である。

 ロシアや東ドイツの共産主義が崩壊した時、共産主義が立ちゆかなくなったからではなかったのか?

 それを今、世界大恐慌に狼狽え、資本主義の崩壊だと叫び、その共産主義を今民主党はやろうとしている。

 過去に学ばない者は何度でも同じ過ちを繰り返す・・・。

 その先にあるものを想像すると、少子高齢化解消どころか、子供を産んだことを後悔する世界が待っているような戦慄さえ覚えてしまう。

 何のために民主党の政治家はイギリスやヨーロッパへ研修に行っていたのだろう?

 人は何でも悪いものから覚えるとよく言われる。

 彼らは悪いものから覚えてしまったのかもしれない。

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10月の景気

 我が家の景気は8月が悪く、9月はやや持ち直し、そして10月はかなり悪化した。

 考えられることはただ一つ。

 巷で言われていた、二番底が来ているということだ。

 何故、それがマスコミで話題にならないのか不思議でならないが、8月からあらゆる業種で解雇が拡がっているのではないだろうか。

 テレビ番組を見ればよくわかる。

 テレビ局は明解なコストカットを行い、ギャラの高いタレントをキャスターから次々に外して局アナをそれに当てている。

 大きな会社のコストカット、人切りは、ドミノ倒しのように周りに連鎖して国中で人が解雇されていく。

 職を失った人々、家や工場、店舗を失った人々の行く先が語られることはない。

 それらの人々は静かに表舞台から消えて、どこで何をしているのか?

 それらの人々が市場社会から去ったことにより、生き残った者たちが分け合い、競争で取り合う全体のパイの大きさは縮小する。

 生き残った者たちも又、前よりも少なくなった収入で厳しい遣り繰りを強いられる。

 それはまるで生きるも地獄、死ぬも地獄のような、大変に厳しい状況である。

 今の状況を見れば、夏以降、景気が今までの分が一気に加速して落ちているとしか思えない。

 日本の貧困率が発表されたとき、「そんなでもないじゃないか」と思ったが、その後で見た「就職できない高校生」のテレビ番組を見た時、本物の貧困が日本社会を覆い尽くしていることを知って愕然とした・・・。

 昔、苦学してでも学校へ進学した理由は、その先に就職があったからである。

 就職することによって、それまでの貧乏が取り返せる可能性や夢があったからである。

 今は多くの子供達にその道が閉ざされている。

 ネットの書き込みを見ても、「化粧品を買うお金がない」「服を買うお金がない」「食べ物にお金を掛けられない」「結婚できない」「職がない」「親にお金がない」・・・という投稿が目につくようになった。

 これまで経験したことのない貧乏に押しつぶされそうな女性の叫びが聞こえてくるようだ。

 救いを求めているのは派遣切りされた若者だけじゃない。

 多くの場所で、あらゆる業種で、人々は収入減に苦しみ、出口のない不況のトンネルの中でうずくまり、不安で戦いている・・・。

 今、日本の景気の状況がどのようなのもであって、それに対して国はどういう対策を打つのか?

 国民が知りたいことはそれだと思う。

 たばこ増税だとか、環境税だとか、二酸化炭素削減目標はその次にあるものだろう。

 派遣村を救うのは結構なことだが、今のままでは生活保護者を増やすばかりで未来がない。

 それよりも先に、その上にいるギリギリの状態で普通の生活をしている人たちをまず救うべきだと思う。

 直接的に日本の未来を作っていく人たち=子供達はそこにいるはずだからだ。

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デートで割り勘とは・・・

 この頃、ネットで盛んに議論されていること。

 デートで割り勘しては何故悪いの?とか何とか・・・。

 要するに、男性が女性を食事に誘った際、支払いは割り勘でお願いします、という男性が増えているということなのだ。

 嘆かわしいが、不思議ではない話である。

 異性とデートする年代の男女に今一番不足しているのは「お金」だからだ。

 気の毒なことだ。

 その悲しい現実の中、割り勘を声高に肯定する人の多くは、割り勘を肯定する家庭で育ったと思われる。

 つまり、「自分の食い扶持は自分で稼ぐ」を旨とする、働かざる者食うべからずの家庭環境だろう。

 子供に無条件で愛情を与え、子供が欲しがる物を「もう、しょうがないな!」なんて買い与えるような家庭とは違い、子供達は欲しいものは自分のお小遣いの範囲内で買うか、あるいはバイトをしなければ買うことが叶わない。

 「もう、しょうがないな」が出ないのだからしょうがない。

 やがて学費もバイトで稼ぐか奨学金という名の借金をして賄う。

 何故か?

 親にお金の余裕がないからである。

 これほどに惨めで辛いことがあるだろうか?自分の血を分けた子供に欲しい物を買い与え、喜ばせることが出来ないのだから。

 親たちはその現実から目を逸らし、子供らには言い訳をし始める。

 「自分の欲しい物、自分がやりたい事のために自分でお金を払うことが一番尊いことなのだ」などと子供に教え込む。

 それは子供が学校を卒業して、就職してからの話だろう・・・。

 その親のクセは見事なまでに子供に伝承された。

 「男女平等の時代、支払いも割り勘ですることが正しいあり方だ」とか、「今の時代の常識だ」とか、言い訳だけは一人前だ。

 自分たちの保身のために、理屈を張り巡らせて自己防衛に必死な姿が哀れでしょうがない。

 お金がない故に、自分が大事にしているものにさえお金を使って喜ばせることが出来ない。

 この苦くて厳しい現実から目を逸らし、言い訳して、その先に何があるのだろうか?

 一時の心の平穏だろうか?

 誤魔化しても誤魔化しても、その現実から逃れることは出来ない。それを知っているのは自分自身だからだ。

 苦しいから逃げているのは自分自身だからだ。

 苦しいなら何故苦しいと言わないのだろう。

 親がお金がないのを知っているから、欲しい物を欲しいと言えなかった悲しい子供の心のままで今も生きているのか。

 それでは駄目だよ。

 「俺だって好きな女の子に美味しいご飯をご馳走してやりたい。そして、笑顔でご馳走様と言われたい。それが出来ない現実が苦しいんだよ」と言わなければ駄目だ。

 そうしなければ、予算の枠内でしか生きられない割り勘人生を歩む人と、奢り奢られの広がりある血の通った人生を歩む人とが二層化するだけだ。

 今よりも日本がまともな国だったころ、学生時代は割り勘であっても、社会人になれば人にご馳走したりと、ステップアップしていくことが出来た。

 大きくなって働いて親に楽させてやりたいとか、好きな物を買いたいとか、そういう子供の心を踏みにじったものは何なのか。

 若者から夢を取り上げてしまった物は何なのか。

 それは、長く続いた自民政権が日本という国にもたらした大きな禍である。

 若者達のすべての根が腐ってしまわない内に、国が再建されることをひたすらに望む。

 そうしなければいけない。

 何故なら、割り勘の連鎖は世代を超えて受け継がれることになるからだ。

 言い換えれば、それは貧困という名の生き地獄の連鎖である。

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格差社会について

 選挙を前に「格差社会を是正しなければならない」という言葉がよく聞かれるようになった。

 確かに日本全体の景気が落ち込み、あからさまに生活が苦しくなった人々が目につくようになってきている。

 高校進学さえ危ぶまれる子供達や、給食費を払わない親たち。

 自転車で走る人々。

 誰もが生活の苦労を背負って生きているように見える。

 我が家の生活も決して豊かではない。

 それでも何とか中流の体裁を保って生きていけるのは、親からの援助と、先祖から受け継いだ土地家屋があるからだろう。

 夫の親は広い土地と古い家を残して亡くなり、私の親は子供達からの援助を必要としないばかりか、子供に援助することが出来る程度の余裕はある。

 夫に兄弟はなく、私の兄弟はどちらかと言えば高給取りである。

 高給取りでも双方の親から何らかの援助を受けている。

 思えば、亡くなった祖父も働いた給料で家を建てた人である。息子二人を大学に行かせ・・・。

 十分な年金があったはずだから、最後の数年の介護生活の費用はすべて祖父のお金で賄え、更に少々の遺産を残した。

 敗戦国日本であるが、現在の格差の発祥は戦後に遡る。

 中卒で集団就職をした人を父に持つ人もあれば、私のように大学卒の父を持つ人もいる。

 両者は全く違う生き方をしているのではないだろうか。

 戦前の格差はもっと大きかった。

 私の母はその格差の生き証人である。

 その頃、下町で工場を持っていた母の家は金持ちで、書生やネエヤがいたそうだ。

 小学校の昼時にはネエヤが弁当を届けてくれたそうだ。商売をやっている家の子には、店屋物の鰻重が届けられたそうだ。

 それを見て教師は「お、良い物食っているな」などと言うのだという・・・。

 現代を生きる日本人にはおおよそ耐えられない光景だろう。

 敗戦によって、このような格差はなくなったのだから。

 それなのに、今日言われているような格差という概念が生まれたきっかけは、バブル景気とバブル崩壊にあると思う。

 バブル期を生きた人なら思い出すことが出来ると思うが、一般庶民が都内に家を持つことは絶望的な時代だった。

 その頃住んでいた社宅の近所で、1億円の値段の家が売りに出ていた。

 私たちが住んでいた家よりもずっと小さな家である。

 それでも庶民は夢を見ることが出来た。欲しい物はローンで買うことが出来たからである。

 欲しい物が買えるという点で、同じ夢を見ることが出来たのだ。

 コツコツ貯金をすれば、面白いように金利がついた。お金は銀行や郵便局で寝かせていても勝手に増えたし、株式投資で儲けた株ド素人だって数多くいた。

 だから、人々は今よりも遙かに不満を持たずに生きていた。

 そして、バブル崩壊が起きた。

 それによって大規模なリストラが敢行され、多くの破産者が生まれ、金融は急速に収縮した。

 その頃リストラされた人々の家族は今、どうなったのだろう?と思う。

 下手をすれば親をも巻き込み、戦後から祖父の代から積み上げてきた資産やすべてのセーフティネットを失った人もいたのではなかったろうか?

 その基礎の部分が崩壊してしまえば、中流の生活は成り立たなくなる。

 帰ることが出来る、頼ることが出来る親元がなくなった時点で人生は漂流するしかなくなる。

 その時の人々の恨みが今日まで渦巻いているような気がする。

 今、中流を生きている人で、親が中流未満の貧乏人だった人間がどれほどいるのだろうか?

 親が貧乏であれば親に援助することによって、自分自身の可処分所得は減るし、高齢化すれば益々金銭的な負担は高まる。

 それだけではない。親が貧乏であれば、その子供が上に上がれない理由は幾つもあるのだ。

 その格差を是正するとして、誰が裕福な親の役目を肩代わりすると言うのだろう?

 返さなくても許されるのは親からの援助だけだ。

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ホームセンターやスーパーのレジ打ちに見る格差社会

 最近、通販が流行っていると言うが、家に居ながらにして買い物が出来るという利便性もさることながら、劣化日本人と遭遇せずに買い物をすることが出来るというメリットは非常に大きいのかも知れない。

 ここのところ、ホームセンターなどに出掛けるたびに、昔では考えられないような、劣化した日本人のレジ打ちに当たるような気がする。

 手先、指先の動作の鈍さ・・・。

 あの手つきの悪さは生まれつきなのだろうか?

 二桁の年数を生きてきてあの程度の手配りしか出来ないようでは、これから上達するとは思えない。

 また、そこまで丁寧な指導はなされないとも思う。

 何故ならば、レジ打ちとは誰でも出来ると見なされている仕事の一つであるし、長くやって熟練して値打ちが出るという職種でもないからだ。

 そういう指導をするために掛かる時間や経費をカットするため、釣り銭が自動的にレジから出てくる装置も今はある。

 それ故、益々誰でも良いから雇い、要らなくなったら首にするという雇用の仕方が定着するようになる。

 先日のホームセンターは最悪だった。

 レジを打つ若い男性の要領が極端に悪く、「福祉事業の一環として、知能が若干劣る人を雇っているのかな?」と思わせたほどだ。

 人の質問にきちんと答えられないのだ。

 今時、レジや売り場でものを訪ねて答えられる店員がいれば、その人は優秀な方だと言えるだろう。

 その彼がいる売り場の雰囲気はギスギスしてとても悪かった。

 彼に関わった多くの客が苛つき、ラチがあかなくなると苛ついた空気を背負って店内を歩き、サービスカウンターまで出向く。

 そうやって売り場全体にイライラが伝染するのだ。

 なんでこんな人を雇っているのか本当に呆れた。

 しかし、別の日に同じホームセンターを訪れ、雰囲気の違いに驚かされた。

 レジ打ちには愛想の良い接客が出来るオバサンがいて、彼女によく懐いている若い男性がテキパキと動き回っていた。

 尋ねた商品についてわからなければ客と一緒に棚まで見に行き、担当者にきちんと取り次ぎをする。

 それらの対応がきちんとしているから、店内の雰囲気はとても感じが良く活気が感じられた。

 接客が出来る人の特徴は、適切な対応、そして、「すみません」とか「お待たせしてしまって」とかのつなぎの言葉を明るい感じで客に言えることが大きい。

 その多くはオジサンであったりオバサンであったりする。

 客の立場からすれば、そういう使える人にこそ店員として働いて欲しいのであるが、働く立場からすれば、同じ賃金で使えるが故にこき使われ、使えない人たちの分も責任を背負わされ働くことは辛いことだろう。

 まるで社会主義の国のようだ。

 働いても働かなくても同じ賃金。だったら働かない方が得・・・。

 一生懸命頑張っても正社員への登用があるわけでなし。でも、毎日頑張っている。人として立派なことだ。

 一方、使えない人たちのことだが、これからはレジ打ちなどのような仕事は、いわゆる能力が必要とされないどうでも良い仕事として定着していくだろう。

 以前、アメリカへ行ったときに驚いたのであるが、空港職員の態度が日本では考えられないくらいいい加減だったのである。

 無駄口は叩くは、立っている姿勢は悪いは・・・。

 それが許されるのは、その仕事が「誰でも出来るどうでも良い仕事」だと世間で認知され、「その仕事に就いているのはその程度の能力しかないから」とはっきりと認識されているからに他ならない。

 日本にもそれと同じような格差が定着するだろう。

 若い人が要領悪く、感じも悪くレジ打ちをやっているのを見ると、これらの人々は何年経っても同じ所に留まるしかない人々なのだろうな、と思わずにはいられない。

 それを可哀想だと思う余裕は私にはない。

 十分に不快な目に遭わされているのだから。

 不快であるばかりか、時には客が損害を被ることもある。

 ある時、夜のスーパーへお弁当を買いに行ったときのことである。

 レジにはいかにも頼りない、しかも注意散漫で落ち着きがなく、無駄な動きが多い感じの見習いバッジを付けた若い女性がいた。

 一番空いているからと、そのレジに入ったのが運の尽き・・・。

 透明プラスチックのケースに入った太巻きをレジ袋におぼつかない手付きで入れようとしたその時、フタがぱっかり開いてレジの台の上に太巻きを撒き散らした・・・・・・。

 あ、ありえない・・・。

 そんな時、今まで述べてきたような使えないレジ打ちの人たちは、決してすぐに謝って事を納めようとはしない。

 更に悪いことに、その太巻きは最後の1パックだった。

 レジ打ちの女性はまず店長の所に伺いに行き、その足で私たちの前に現れ、「同じものがありません。どうしますか?」と言ったのだった。

 言われたこちらは唖然とした。

 太巻きのパックを撒き散らすほどの要領の悪さ、接客能力のなさもさることながら、そのスーパーの店長の指導の悪さにも呆れた。

 スーパーのレジ打ちが使い捨ての人員であるように、店長も又、派遣の人なのかも知れない。

 そのメンバーで夕方から閉店までの数時間、スーパーは回されているということだ。

 そんな状態のスーパーで文句を言っても始まらない。

 これから我々消費者はどうしたら不快な目に遭わずに買い物を済ますことが出来るのか???

 様々な場面で人の能力差に直面し、昔のようなレベルの高い接客をどこでも受けることは不可能になった。

 個人レベルのやる気のなさがそうさせているのかもしれない。

 一生つまらない仕事で人生を終えなければならないとすれば、それもまたやむを得ないことなのかもしれない。

 何とも世の中の残酷な部分を見たような思いがする。

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いつもと違うGW

 我が家はGWにはどこにも出掛けなかった。

 何故ならば、レジャーに使う余分なお金もないし、特にどうしても出掛けたいという欲求もなかったからである。

 連休前半の平日に家族と都心をドライブしたことが娯楽と言えば娯楽だったかも。

 平日の首都高はとても空いていた・・・。

 お台場や副都心の辺りも人の数はまばらだった。

 GW連休中はテレビの民放も殆ど見ることはなかったが、時折、ニュースで高速道路の渋滞放送を見掛けた。

 1000円になった高速道路を使い、安いうどんでも食べに出掛けたのだろうか?

 体力と時間があり余って、普段余り出掛けない人々がそれほど多かったという事なのだろうか?

 その光景は、数年前に見た光景とダブる。

 その時、我々は避暑地へ行くために高速道路のインターチェンジを目指して走っていた。

 いよいよインターチェンジが見えてきた時、恐ろしい光景が目に入った。

 ランプから料金所まで全く動かないぎゅうぎゅう詰めの車の渋滞がそこにあったのだ。

 降りる側がその状態になっていることにすぐ気づき、ほっとはしたが、いざ入り口から高速に入って走った時、またまたもの凄い光景を見た。

 そのインターチェンジを出るために数キロに渡って高速の一車線が大渋滞と言うよりも、駐車状態になっていたのだ・・・。

 あれこそが真の意味の「渋滞」である。

 車の列を見ながら走っていると、車のわきに立つ人々を発見した。

 追突事故だ・・・。

 まさにこれぞ渋滞。

 苛ついた顔の男性を見た。

 私たちの行く方向はスイスイなのに、反対車線には次から次へ車が渋滞目指して走ってきていた。

 あのインターチェンジから降りるまで何時間掛かったのだろう・・・???

 そのインターチェンジの先には河原がある。

 猛暑の夏、人々は安価なレジャーと涼を求めて河原に集まってきていたのだろう。

 それは大変な数だった・・・・・・・・・・・。

 あの時あの渋滞の中にいた人々が取った行動が、今回、GWの高速の渋滞の中にいた人々の行動にダブって見えて仕方がない。

 もがき苦しむような閉塞感。

 欲しくても手に入らないお金。

 それでも人は希望や夢、楽しみを持ちたいのだ。そして、自分が今いる場所から一時避難したいと思うものなのだろう。

 あれほど高速道路が渋滞したのにもかかわらず、世の中は相変わらず停滞し、空気は重苦しい。

 人々は「定額給付金」や「消費税増税」について軽口を叩き、何とか生き抜いていこうと自分を励ましているように見える。

 時に、「政治なんか誰がやっても同じなんだ」なんてうそぶきながら、人々は救いを求めている。

 GW中、16連休を強いられた人(半リストラか)もいると聞くし、各地の高速は渋滞したが、うちの仕事的にはストップすることはなかった。

 例年は電話も全く掛かって来ないGWなのであるが、今年はパラパラと売り上げがあったのがとても不思議な感じがした。

 まるで、GWの渋滞とは別の世界が平行してこの世に存在しているかのような・・・。

 絶望と狂騒と冷静とでも言えば良いのだろうか?

 かつてあったようなGW大連休の国民の一体感はそこにはなかった。

 

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息苦しい・・・

 草薙剛が酔っぱらって裸になって警察に捕まったという。

 その上、家宅捜索までされたのだという。

 やりすぎじゃないだろうか?

 こいつは芸能人だから大麻でもやっているんじゃないか?という憶測に基づいた見込み捜査というのではないだろうか?

 しかも、何も出てこなかったのだから、やりすぎと国民から非難されても当たり前のことだ。

 証拠もなにもなく、ただ憶測だけで、怪しいと思えば逮捕して身柄を拘束し、あわよくば犯罪行為を自供で引き出せるのではないか?家捜しすれば何か出てくるだろう。みたいな捜査が日常茶飯事的に行われているから、今回のようなことになるのだろう。

 この世に長く生きてきて、叩けば埃のでない人間はいない。で動いているのかもしれない。

 少し前では、西松建設の件で小沢氏の秘書が逮捕されたのが記憶に新しい。

 警察で身柄を拘束されるということは、生半可なことではないし、家宅捜索だって半端なことじゃない。

 国家権力により自由が奪われたり、プライバシーが侵害されることなのだから。

 我が身にもしもそのような事が起こったら???と思うと暗澹たる気持ちになる。

 何故ならば、怪しいと思われただけの無辜の人々が酷い目に遭わされ、自供を強要されるということが実際に起こっているし、過去には拷問が行われたという陰惨な歴史がある。

 今だってわからない、というのが率直な気持ちだ。

 やっている組織は昔ながらのものなのだから。

 戦争、敗戦、占領ということがあったから、何もかも一新されて民主主義が日本に根付いたように思われているが、一新されてはいないのが本当のところだ。

 昔、戦争捕虜を働かせていたという会社の子孫が総理大臣をやっていることを見ても明らかだろう。

 景気が下がり、経済がどん底になって、今、いくつもの出来事によって、日本の本当の姿が世間に晒され始めている。

 戦中に行われていた政府による統制経済も、敗戦で終わったと思われてはいたが、実際には日本の資本主義は官僚によってコントロールされている。

 戦後は遠くなったという言葉があったが、それはまやかしで、そう思わされていただけに過ぎず、本当は日本は戦前を引きずっているのだと思う。

 未だにだ。

 だから、国が景気対策の名の下で定額給付金を国民に撒けば、自らボランティアを買って出て「このお金を使うことが国民の義務です!使わない者は非国民です!」と音頭取りをする馬鹿が出てくる。

 そこまでして奴隷になりたいのか?

 年寄りがお金を貯めていることを知れば、国は何としてでも年寄りにその金を吐き出させようと画策する。

 最後には銀行預金、貯金に課税するようになるだろう。

 日本政府は、戦時中に戦闘機を作るため、足りない鉄を国民に供出させたことと全く同じ事をしようとする。

 鉄鍋も、釜も、神社仏閣の鐘さえも差し出させた。

 そんなことを民主主義時代の日本政府が出来ないと高をくくっていると、その人たちは後で泣きを見ることになるだろう。

 政府は国民に合法的に金を吐き出させることは可能だ。

 多数決という民主主義的な手法をとりさえすれば、それが可能になるのだ。

 そのことが現在のアメリカで起こっていることなのかもしれない。

 圧倒的多数の貧乏人の支持を受けて当選を果たしたオバマ大統領は、その大きな人気を武器になんだって出来るだろう。

 貧乏人には巻き上げられる金がないのだから始めから何も傷つかない。

 恐ろしい目に遭わされるのはお金や財産を持っている、普通の市民たちなのだ・・・。

 世界恐慌が起き、世の中にお金が回らなくなった時、ヨーロッパ的な階級的社会主義が世界を席巻する。

 力や心ある小金持ちたちは金を奪われ無力化し、その他大勢の貧乏人と同様奴隷として国家にコントロールされる存在に成り下がる。

 働くのが嫌いな馬鹿な貧乏人たちは、国が自分たちの面倒を見てくれるという案には何も考えずに飛び付くのだから、政府は騙し放題だ。

 肥えるのは支配する側にいる者たちや、天下りで堅く結びついた企業やその仲間たちだけだ。

 何とも重苦しく、息苦しい世の中である。

 この奴隷地獄に陥りたくなければ、絶対に政権交代を実現させなければダメだ。

 この長い戦前から続いてきた陰惨な日本の歴史を、今こそ断ち切るときだ。

 そうしなければ、アメリカ同様、日本人も統制経済や色んな縛りによって、政府や官僚にコネを持たない普通の市民は私有財産さえ持てなくなるかもしれない。

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貯金をする民族

 内需が落ち込み、今、日本政府は景気を上げようと何とか国民に”余分な”お金を使わせようと必死な観がある。

 アテにしている財源は、国民が真面目に働き節約して貯めた虎の子の預貯金である・・・。

 この未曾有の世界的経済危機にありながら、他の国のように日本で大規模な暴動やデモが起きないのは、おそらくはこの国民の虎の子のお陰だろう。

 預貯金がない外国人と違い、日本人には預貯金がある分、失業から即破産、ホームレスになる人間の数はそんなには多くないと言える。

 自分に預貯金がない人でも、親には預貯金がある・・・というのも日本人の豊かさの秘密だろう。

 そのことがあるから、今、見かけ上は日本の景気の悪化が凪いでいるように見えるのだ。

 しかしながら、このように堅実で、我慢を知る日本人であるからこそ、高速道路が1000円になったくらいで容易には財布の紐を緩めたりしないのである・・・。

 そのことを日本国政府は誇りに思うべきだ。

 いざという時に備えて貯金をすることが出来る日本という国は素晴らしい。

 一方で、国の福祉が充実し、高福祉高負担の国がある。

 それらの国は高い税金を国に払うことで、国が国民の福祉を保障するという契約が成り立っているようだ。

 税金が高いので預貯金は出来ずらいしくみだ。

 つまり、自分の安全や保障を国に委譲するという事だ。

 高福祉高負担の国の人々は、そこまで国を信用しているのだろうか?

 とても不思議な気がする。

 私にはそこまで国を信用することは出来ないし、貯金するもしないも個人の自由裁量で決められない国には住みたくない。

 預貯金が出来ないと言うことは、個人が財産を形成することが難しいのではないだろうか?

 非常に社会主義的なものを感じる。

 最近は、自力でお金を稼ぐチャンスが縮小しているせいか、この手の社会主義的な思想に傾倒していく人がチラホラ見受けられるような気がする。

 今の日本を保っている原資になっている「いざというときのために備え、貯金するという習慣・知恵」を軽々しく捨てて良い訳がない。

 国の横暴から身を守るためにも、個人のお金、財産は必要不可欠な物だ。

 お金や財産は武器になるからだ。

 お金や私有財産を持たないと言うことは、イコール、無力であることを意味する。

 丸腰にならないように・・・。

 不確かな時代であればこそ、まず自分の生活を第一に考え、周りに踊らされずに生きることが大事だろう。

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高速料金・・・一気乗り1000円(笑)

 いよいよ始まる「高速料金1000円乗り放題」であるが、どうなることやら???

 非常に、非常に興味がある。

 去年の夏休みからお正月休みと高速を使ったが、特にお正月休みの高速道路の空き具合は驚愕するに十分だった。

 渋滞らしい渋滞がなかったのは初めてだったのではないか?

 そこに来て、待ってましたの1000円乗り放題企画なのだが、果たして、どれほどの効果が望めるものなのか???

 不況が始まる前ならば、大学生や若い人たちが狂喜乱舞して、最長距離を目指して色んな楽しい計画を立てたことだろう。

 1000円でどこまで行けるか、みたいな。

 彼らは若くて元気だから、1000円乗り放題ならどこまででも行く。

 ガソリン代を割り勘にするから、大勢がぎゅうぎゅう詰めで楽しく出掛けることだろう・・・。

 その人出は今の日本では期待できない。

 何故ならば、今や若者は運転免許さえ持っていないのだから。

 次は家族連れだ。

 高速代が1000円になると言っても、案外馬鹿にならないのがガソリン代だ。

 よほど燃費が良い車に乗っていれば、と言っても、燃費を気にして車を買うような人たちはガソリン代を予め計算してから出掛けそうだ。

 と言うことは、長距離を利用する人はそんなにいないかも?

 日帰り旅行中心のドライブになるのでは???

 とすれば、極端に混むルートが出ることはあるかもしれない。

 正直言って、そこに当たったら地獄としか言うしかない。

 渋滞は景気のバロメーター。渋滞あってこそ繁栄がある、なんて言いながら、私たちはバブルの時も渋滞を避けて平日出掛けることが多かったような気がする・・・。

 今回も様子見だ。

 どれだけの人間が車で高速で移動するか。

 燃費とかガソリン代とかを深く精査することなく、「高速1000円!ヤリィ!」とノリノリでこの政策に乗ってくれる人たちがどれだけいるか?

 その事は日本の将来の明暗を占うと言っても良いだろう。

 かつて、日本の内需を支えてきた層が、これらの人々であるからだ。

 自家用車で家族や恋人、友達と出かけ、サービスエリアで休憩し、無造作に揚げ物関係のスナックやアイスクリームを買い、レストランで食事し、お土産にキティちゃんのグッズを買ったり、とにかくお金を使ってしまう人たちだ。

 これらの人々はサービスエリア以外でも、道の駅にも数多く出没する。

 今回の超目玉景気対策で、万が一にでも高速道路が期待したほど混まなかった場合、車を手放した人たちがかなりの数に上っていると言うことになる。

 合理的な理由から車を持たない選択をする人々は、残念ながら内需に多く貢献しない人々である。

 それらの人々が増えていると言うことは、国にとって深刻な問題だ。

 お金を使うことは人間が持つ自然な欲望の一つである。

 そのことを否定した国に繁栄はない。

 今回の高速料金1000円化という政策は、その試金石になると言えるだろう。

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3月ショック

 現在、民主党小沢問題の陰に隠れて全く報道されないことがある。

 果たして、3月ショックは起きるのか?起きないのか?

 それともすでに起きているのか???

 私はこの事にとても関心がある。

 何故ならば、うちの仕事の売り上げが3月に入って止まったからである。

 1月2月は良かった。

 そのことは政府が出したデータにも出ているらしい。

 消費者心理が2ヶ月連続改善したと、テレビで報じられていた。

 参考:時事通信社

 それが3月に入って急減速とは何事だろうか?

 年が明けて、大部分の国民は無事に年を越せたことを喜び、消費マインドが上がったと考えることが出来る。

 実家へ帰ってお小遣いを貰ったり、年越し派遣村の報道をおこたに入って見ながら「あの人たち、寝る場所があって良かったね」と語り合い、我が身の幸運と日本の良さを再認識した人たちも多かったろう。

 その上、今年は選挙の年だから、何かが変わると国民の気分は上向いたのである。

 良い方に変わろうが悪い方に変わろうが、新年、新学期、入社、結婚など新しい門出に人々の心は浮き立つものだからだ。

 その浮き立つ気持ちに冷や水を浴びせたものがある。

 そのマインドを急速にしぼめたのは、国策捜査と揶揄される一連の政局騒動だと私は考えている。

 一人の政治家、しかも、次回の選挙の結果如何で次期総理大臣になるやもしれない人物が、実は汚職政治家であった!みたいな報道を連日連夜なされ、心をかき乱された国民は数多くいることだろう。

 「もう、何を信じて良いかわからない!」「一体どうなっちゃうの?!」などなど。

 たとえそれが一時的なものであっても、消費マインドが落ちれば経済に多大な影響を与える。

 だが、もしかしたら、それだけではないかもしれない。

 広く世間に報道されない水面下で、大、中小企業の人員整理や廃業、その類のことが静かに進んでいると言うことも考えられる。

 職を失い、将来に不安を感じている人が消費に動くわけがないのだから。

 何が本当の原因かは定かではないが、3月になって、ピタっと売り上げが止まったことだけは確かだ。

 この政局騒動が長引けば長引くほど、景気は停滞することだろう。

 早期の解決を望む。

 ETCを無料で先着50名様@大黒ふ頭、などという、一般のユーザーの感覚からすれば、「非現実的な安売り大会」をどんなに大きく報じても、何か空しく感じてしまう。

 先着何名様じゃなくて近場で無料で付けられるなら、我が家のすべての車に付けたいものなのだが・・・。

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働く女性と便秘

 景気が下がって収入が下がって、今日では共働きが珍しくなくなった。

 女性の社会進出と言えば聞こえは良いが、女性の社会進出の進んだロシアでは、バスの運転手や電車の車掌など、肉体労働系の仕事に女性が進出しているのが目立ったことが思い出される。

 男並みに働くということはそんな事なのだろう。

 その結果、便秘に悩む女性が増えたと私は思っている。

 深刻な便秘・・・なのかもしれない。

 それはそうだろう。

 一日家の中で好きなときにオナラをプープー出来る人と違い、起きている時間の大部分を衆人環視の中で過ごさなければならないのだから。

 出先で上手くオナラをしたり、大の方の用足しをスムーズに出来る日本女性は相変わらず少ないのではないか?

 腹部膨張感に悩まされ、オナラを我慢するから余計にお腹はぽっこりと出、スカートのウエスト部分を圧迫したりで辛い腹痛が起きる。

 それを繰り返せば酷い便秘になることは目に見えている。

 オナラをプープー排出できなければ、自然とそうなる・・・。

 かく言う私も、美容院でオナラを催してもプーは出来ない。音は誤魔化せても匂いは誤魔化せないだろう・・・と思うからだ。

 便秘の繰り返し、下剤の乱用。。。。

 この頃日本人に大腸ガンが増えているということと何か関係があるのではないか?

 なんて思ったりする。

 泣くに泣けないなぁ・・・。

 江戸の時代、食えない家の農家の娘は女郎となって、身をひさいで金を作った。

 現代、女性達は家計のために働きに出て、健康を犠牲にして金を稼ぐ・・・。

 ここまで言ったら言いすぎだろうか?

 男並みに働く決意なら、男並みの図太さで、プープーオナラをかますしかない。

 お腹が出たからと言って、便の流れを阻害するようなボディースーツやガードルを履いている場合ではないと思う。

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財布の数は幾つ?

 先日、近くの家電量販店へ行って驚いた。

 期間限定のセールをやっているせいか、普段ガラガラの駐車場には半分近くも車で埋まり、店内は活気に溢れていたのだから。

 駐車場から店内まで見渡して、面白いことに気づいた。

 枯れ葉マークの車から降りてきたのは、高齢者とその息子・娘家族とおぼしき家族連れ。

 運転をしていたのは息子らしき男性だった。

 そのような二世代家族連れの姿が目立った。

 これは、なにも家電量販店に限ったことではなく、2,3年前から夏の行楽地でも良く見慣れた光景である。

 家族連れプラス高齢者。

 そういうグループが一台の車からゾロゾロ降りてくる様を頻繁に見掛けた。

 孫らしき若者が高齢女性の車いすを押していたり・・・。

 これは何を意味するのだろうか?

 答えは簡単なことだ。

 名付けて、スポンサー付き家族旅行。

 親という名のスポンサーがいるから余裕がある家族旅行が可能になる、ということではないだろうか?

 親の金銭的援助があるから、十分な予算を持って家電量販店で商品選びが出来る・・・。

 そうとも言えるかも知れない。

 家族間相互セーフティネットと言っても良いだろう。

 世の中が不景気になり、お互いに心細くなり、昔ながらの助け合いの精神がよみがえって今があるのではないだろうか?

 あちこちで人員削減、倒産、それによる失業の声を聞く。

 いつ何時自分に災難が降りかかってくるかわからない。

 職を失って即一文無しになるようでは今の世の中渡っていけない。

 共働きを一家に財布が二つあると言うなら、親からの資金援助は第三の財布と言うことが出来る。

 財布は幾つもあった方が良いし、財布が一つしかない家は何とも心許なく感じるのが今のご時世だ。

 親からの資金援助はいわば不労所得で、働かずに手に入れるお金だから格別のものがある・・・。

 普段の生活費は自分たちの収入で賄い、旅行や、レジャー、趣味の部分は特別会計から出せば人生の幅は広がる。

 節約と不安だけの人生から脱出できるのだ。

 そのことに気づいた人が多かったのだろうか?

 親子関係を円満にし、お互いに助け合っているように見える家族連れを見てそう思う。

 高齢の親の面倒を見たくない、折り合いが悪い、そういう女性を伴侶と選んだ男性の家族はその恩恵を得ることが出来ない。

 親の資金援助は別の兄弟がありがたく頂くことになるだろう。

 事によっては一生の不覚となることさえある。

 そのような例を幾つか見てきた。

 数千万円程度の損をした挙げ句に、一生その悔しさがつきまとう。

 世の中が厳しくなればなるほど、サバイバルのために頭を使い必死になる必要がある。

 人生は人が気楽に考えられるほどフレキシブルには出来ていない。

 ポーカーのように手持ちの札を全取っ替えすることも出来ない。

 自分の持つ札でいかに勝負をするか。それだけしかないのだ。

 自分を大切に、そして家族、先祖を大切に。

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田舎のネズミと都会のネズミ

 昔読んだ童話の中に、「田舎のネズミと都会のネズミ」という話があったように思う。

 都会に出てきたネズミが、都会の雑踏や交通にビックリして逃げまどうようなシーンが思い起こされる。

 絵本の中で小さなネズミがうろたえ、右往左往する様は胸が痛くなるような光景だ。

 でも、本当に哀れだったのは都会のネズミの方だった。

 帰るふるさとを持たない都会のネズミは根無し草のように都会を漂い、野垂れ死ぬだけのように見えた。

 それは今の人間社会にも当てはまるのではないだろうか。

 地方から都会へ出てきて働き、都会に家を持つことが出来たら人生のゴールに足を踏み入れたのも同じだ。

 しかしながら、ローンを払っている最中は、まだゴールしたとは言えない。

 都会に根を下ろすことが出来るかどうかが問題なのだ。。

 それが運命の分かれ道だろう。

 更にもう一つ、都会生活に挫折したとき、帰る田舎があるかどうか・・・。

 それは運命を過酷に分ける道しるべだ。

 「帰ってこい」と言ってくれる親兄弟を持たない人々にはセーフティネットはなきに等しい。

 一度落ちたら底まで落ちてしまう。

 しかし、田舎に家があれば話は違う。

 都会で面白おかしく暮らせた時代と違い、今の日本では、同じ貧乏なら田舎で両親と同居してひっそりと暮らす方が豊かな生活が出来るのではないか?

 田舎では食えないからと都会へ出たところで、一生賃貸住まいでは一生自転車操業だ。

 それよりも田舎の実家で昔ながらの大家族で暮らす方がより合理的であるし、いざと言うときのセーフティネットはより丈夫になる。

 不景気や世界大恐慌で疲れ果てた日本において、リストラなどの憂き目に遭った人々は、今はひとまず羽を休め、次なるステップへ行くために緊急避難をする時なのではないだろうか。

 助け合う家族を持つ者は助け合い、何とかこの危機を生き残ることが大事だ。

 一家族で動くなら、車を一台くらいは持てるかも知れない。

 工夫することでお金を節約することも出来るかも知れない。

 何よりも孤独に押しつぶされ、精神から先に壊れていくことを防げるのではないだろうか・・・。

 家族愛、人情が、これからの日本を支える力になるような気がする。

 その力が内需を支えて行くだろう。

 蓄財や投資、情報でもない、日本に昔からある「家族愛、親子愛」がこれからは何よりも大事な財産になることだろう。

 自分は今、何を持っているのか。

 今ある物を遣り繰りして、今後しばらく続くであろう厳しい時代を乗り切るしかないことは確かである。

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年が明けて景気は?

 去年、11月の売り上げ減少幅は過去最大で、それが長く続けば夫がよそに働きに出なければマズイだろうという水準だった。

 12月は11月よりは辛うじて良く、その少しの挽回を心の支えに年越しを迎えた。

 年末年始、年越し派遣村の報道を見て、「まだまだ日本は、大量解雇に驚き、それを異常な事態として捉えるマインド、それを助けなければダメだという人情、そして何よりも助ける余裕があるのだ」ということを強く感じた。

 明けて2009年。

 幸いなるかな。我が家に訪れた未曾有の経済危機はひとまず止まった。

 11月前の水準に戻った。

 苦しいときに一生懸命にもがき、努力した成果なのかもしれない。

 それはとても嬉しいことなのだが、自分たちの景気が回復すると、周りのことがとても気になり始める。

 自分たちの売り上げが回復したのは、日本の景気が下げ止まったところで落ち着いた事を表すのか、たまたまなのか計れない。

 ひとつ考えられるのは、アメリカ発の世界同時不況が起きたとき、多くの日本人の心の中で「安全装置」が発動し、ブレーカーが落ちて停電した状態のようになったのではないか?ということである。

 本来、お金を使うことが出来る層までがブレーカーを落として、ショートから身を守ろうとした。

 それらの人たちが年明けて、一斉にお金を使い始めた。

 そういうことはあるかもしれない。

 駅前のアウトレットにも車が戻ってきた。

 ガソリンや灯油の値段が安くなり、庶民の生活にゆとりが生まれたことも大きいだろう。

 そして、何よりも今年は総選挙の年である。

 国民の気持ちは去年の時とは同じではない。

 日本人は耐える国民である。

 目標を持つと強いところもある。

 一人一人の国民が、半端な政権や馬鹿馬鹿しい国会や総理大臣にさじを投げ、自力で生きる道を探り出したのだと私は思っている。

 国民は現自公政権を見放したのだ。

 「お前らがそういうつもりなら、俺たちは俺たちでやる。自分の身は自分で守るわ」

 そう思って生きている国民は多いだろう。

 そう思うことが出来ないのは、今、食えていない国民だけである。

 派遣切りに遭い、身を寄せる実家さえない、行き場を失った人々に代表されるそれらの人々は、どうにも動きようがない境遇にある。

 これらの人々は、残念ながら、国の経済を動かす大多数には現在入っていない人々で、又、それらの人々が日本人のごく少数であるからこそ、日本にはまだまだ力が残っているとも言えるのである。

 政治の舞台裏、政・財・官の癒着を知ってしまった国民が、もはや国や政府に多くを期待することはない。

 あるのはいかに政府や官僚の好きなようにされず、国民が奴隷のように扱われることなく、楽しい人生を生きられるかどうかを考える醒めた目線だけだ。

 「もう騙されないぞ」と。

 国民が国を信用しないことは悲しいことでも嘆かわしいことでも何でもない。

 正常なことだと私は思っている。

 安定した職を持ち、財産を持ち、年金を得られている人々こそ、国に厳しい目線を向け、自分たちの権利や自由、財産が脅かされることがないように監視しなければならない。

 つまり、国に対してもっともっと文句を言え、言いなりになるな、ということである。

 そのことが、巡り巡って、気の毒な派遣切りにあった人々や、若くて食えないでいる人々を救うことになるはずなのだ。

 今後間違いなく、日本を引っ張っていく牽引力になるのは、現在お金を持っている家族なのだから。

 それらの人々の稼ぐ力や貯金が日本の財産だ。

 しかしながら、国民は国に乗せられ、救い主や正義の使者になる必要は全くない。

 それはどの党が政権を取っても同じ事である。

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ディスカウントショップ考

 私の住んでいるエリアに幾つかの郊外型のお店が集まっている道がある。

 会員制のホールセールから、100円ショップを擁する激安ディスカウントショップまで、いろいろだ。

 店ごとに見事に来る客層が分かれている。

 今回、初めて、その激安ディスカウントショップへ足を運んだ。

 開店から2年くらい経ったろうか?

 昔ながらの安売りショップ的な商品の陳列で、広いために見るのに疲れた。

 商品は沢山あるように見えるが種類は少ない。

 付き合いで1000円以下の衣料品のコーナーも見たが、げんなりした。

 そこで真剣に選んでいる人を見て、更にげんなりした。

 通販で1,2万の衣類を購入する私にとって、500円のパンツを試着して買う人の気持ちはわからないのかもしれない。

 お菓子を幾つか買ったのだが、有名国産メーカーの箱菓子の近くに、そっくりの外箱をした類似商品が山積みされていた。

 一箱100円程度安い値段で売られていた。

 それを無造作に手にとって買っている男性客を見掛けた。

 お菓子の製造は中国などの外国かもしれないと思った。

 我が家がよく買うペットシーツの値段も見てきたが、年末年始のセールでDIYショップで買った価格よりも200円ほど高い値段であった。

 もう二度と行かないと思った。

 その横に100円ショップがあったので、面白そうだったので覗いてみた。

 ありとあらゆるものが100円で売っている。そういう感じだ。

 本当に生活に必要な雑貨や文房具、オシャレ小物さえ100円(税込105円)で売っているのだ。

 とても不思議な感覚に襲われた。

 まるで悪いお酒を飲んで酔ってしまったような、めまいがする感覚だ。

 一個100円のもので、ヘタをすればすべての生活必需品を揃えられるかも知れない。

 物の値段って何だろう?

 物の価値って何だろう?

 100円の生活必需品で構成された生活って、何物なのだろうか?

 そんな時、決まって、心の奥底の方に、ゴーーーーーっと言うような奈落の底で荒れ狂う激流の音が聞こえてくる。

 人は何かに掴まっていなければ、その激流に飲まれ流され、海の藻屑と消えていくだろう・・・。

 その何かとは、100円ショップで買った物では決してないと私は思う。

 お金は人間社会で尤もわかりやすい価値の基準である。

 100円で売っている物と1000円で売っている物の価値は同じではあり得ない。

 不況の今、少ない予算で生きていかなければならない人々の買い物欲を満たすために、ディスカウントショップは存在する。

 100円ショップには、それらの人々の欲望が渦巻いている。

 それは正のエネルギーなのか、それとも負のエネルギーなのか、私にはわからない。

 1コインと言えば昔は500円玉を指した。

 今、それが100円を指すとすれば、我々の暮らしは明らかにそこまで落ちたのである。

 没落したのである・・・。

 楽しいはずのショッピングで重い疲労だけが残った。

 

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身近にある脅威

 先日、親戚の法事がお寺であった。

 お寺も昨今の不況の影響をもろ被っていると聞く。

 この不景気で先行き不透明な昨今、法事をやる家庭など減って当たり前だ。

 衣食住に足りてない人々が仏事にお金と時間を掛けるはずがない・・・。

 まして墓など買う訳がない。

 生きていることが大変なのに、死んだ後のことを考える余裕などないだろう。

 集まった親戚も高齢化が進んでいた。

 入院、生活苦、離婚、病気、不況・・・。

 明るい話題など一つもない。

 その話題の中心になっているのは老人ではなく、中年世代の親戚なのだから悲しいし、今の世相をよく表している。

 今や年金暮らしの高齢者の生活が一番安定しているものなのかもしれない。

 親戚の中で、将来生活保護に落ちそうな親戚がいて、年々そっちに近づいていくのには驚かざるを得ない。

 将来生活保護に落ちるというのは何年も前からうちの夫が言っていたことで、その時にはそういう事実は一つもなかった。

 しかし、夫の言うとおりにその人は落ちていった・・・。

 不幸な生まれの人には、不幸なレールが用意されているのだろうか?

 不幸なりに安定しているのかと思いきや、ある時、ガクンと大きな落とし穴が開いて落ちる。

 そういう落ちるところまで落ちていきそうな人の特徴は、セーフティネットが一つもないことである。

 派遣村の人々がそうであるように、親がいなかったり、親に成人した子供を扶養するだけの財力がなかったり、親が生活保護を受けていたり・・・、そういう感じだ。

 そういう後ろ盾がない人たちは、どこか投げ遣りで、粘ることをしないことが多い。

 生まれたときから成功体験が乏しいからだろう。

 人に良くされてこないから、人情もわからない。

 お金がないから、お金の有り難みもわからない。

 貧乏人は心まで貧乏であることが多いから、清貧とは不思議な言葉である。

 これからは親も貧乏で子供も貧乏という関係が更に固定化される。

 身近な親戚にそういう人間がいると、なんだかとても憂鬱な気分になる。

 それは身近にある脅威と言っても良いだろう。

 ある日、切羽詰まって我が家にやって来る・・・なんてことがなければ良いのだが。

 余裕のある親がセーフティネットであるとすれば、生活保護やそれ以上のレベルに落ちそうな親戚は、矢張り「身近にある脅威」だ・・・。

 色んな気持ちがない交ぜとなり、しばらくの間、心は晴れないだろう。

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商店街の終わり

 高齢の叔母の付き合いで、最寄りの駅前商店街へ買い物へ行った。

 お盆の時や主に仏事に必要な供花やまんじゅうを買うため、年に何回かその商店街へ行く。

 前に行ったときは去年の7月、お盆の時期であったと記憶する。

 そして、先日、買い物へ出掛けたのであるが、余りの変貌ぶりに驚いた。

 狭い道に面した商店街であるが、前には交通量が激しい、人の往来が多い道だという印象だったのが、やけに車の交通量は減り、人は殆ど歩いていなかった・・・。

 目的地の花屋と言えば、休みかと思ったほどだ。全く活気がないのだ。

 一歩足を踏み入れると、バケツに差してあるはずの生花は一本もなく、ガラスのショーケースに入れられた花と言えば、枯れたバラ、チューリップ、更に上の方が折れた花などが平然と飾られていた。

 バケツやガラスの花瓶に張られた水も今日取り替えたものとは思えない。

 従業員は誰もおらず、女主人は前よりもずっと老けて見えた。

 そして、叔母を相手に、双方とも要領を得ない会話を延々と続けていた。

 法事の花を頼み、そのお金を払ってくると、わざわざ店の外まで見送りに来た。

 今までにはないことだった。

 自分も自営で商売をやっているのだから、去年の秋以降、どんな状態になったのかは容易に想像がつく。

 花屋のような生ものを扱う商売にとって、1ヶ月で売り上げが半減するような景気減退が起きれば、たちまちの内に運転資金は回らなくなるだろう。

 その後のクリスマス、正月の繁盛期も、盛り返すことはなかったように見えた。

 地域差もあるだろう。

 その商店街の周りは、かつては大きな工場が幾つもあって、その従業員達で街は活気があったものなのだが、それらの工場は海外へ移動したり、不景気で閉鎖されてきた。

 それ故、今、とてつもなく商店街は寂れている。

 店主も高齢化し、客も昔なじみの高齢者しか来ないのだと思う。

 他の店にも寄ったが、叔母を懐かしがり、共通の知人の話をしてなかなか帰してくれなかった。

 家に帰って来てからも、しばらくの間、気持ちは落ち込んだ。

 この十数年の間、その駅前の商店街は激変した。

 元は昔ながらの寂れた駅前アーケード商店街だった。

 それが再開発で駅ビルが出来、バスターミナルが出来、昔の商店街は人の流れからは外れてしまった。

 近くには高層のマンションが幾棟も建った。

 その頃は、その駅前がとても栄えているように見えたものだ。

 が、夫の情報によると、現在は大半が空いているようだったとのことだった。

 駅ビルの地下の食料品売り場も、年々中身が悪くなって行った。

 今年のお盆の頃、あの花屋は営業を続けているのだろうか?

 始めがあれば終わりがある・・・とは言うが。

 身につまされるような、胸が苦しくなるような光景だった。

 あの駅前の商店街がなくなれば、年老いた叔母が知る、叔母が青春時代を生きた商店街はこの世から消えてしまうことになるだろう。

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エアコンより灯油ストーブ

 先月の電気料の請求は普段の1万円増し以上だった。

 夏の冷房よりも冬の暖房の方が電気代が食うということがわかった。夏の最盛期よりも5千円程度のアップだ。

 しかも調整費という名の値上げまであった。

 断熱材の入っていない築30年以上の家は寒い。極寒と言って良い。

 そこで夜もエアコンの暖房を18~20度程度にセットして寝ていたことも電気代に響いているのだろう。

 だが、もう限界だ!!!

 年明け東京のボロ屋へ戻ってきて、この恐ろしい寒さに気が狂いそう。

 昨日はエアコンでは部屋が一向に暖まらず、ついに灯油ストーブを解禁することにした。

 やっぱり灯油ストーブの力は凄い。

 幸いにして灯油の値段は1リットル辺り30~40円くらい安くなっている。

 寒くて体力が落ちると風邪を引くのだから、その薬代を考えると暖房をケチる方が損害が大きい。

 すでに市販薬を1万円近く買っている。

 最悪の場合、エアコンとストーブの二基掛けするしかない。

 それでも売り上げが落ち収入が減ると、何がなんでも節約しようとしてしまうのは貧乏人の性なのだろうか・・・?

 身体的苦痛を伴う節約は少しも楽しくない。

 心も体も疲弊する。

 幸いにして我が家の経済危機は底打ちしたようで、精神的にはかなり余裕が出てきた。

 それがなかったら、今どうしていたのだろう?

 寒さに震え、夫に八つ当たりをしていたのだろうか?

 一度体が冷えてしまうと筋肉が少ないせいなのか、私の体は温まらず冷える一方のように思う。

 寒さに耐えるとき上体を酷く強ばらせるから、半端じゃない疲労感がある。

 それは苦しみである。

 冷えとは、暑さバテとは異質な、死に限りなく近づくような感覚である。

 暖かな実家ではあり得なかった、足の冷えに驚かされる。

 モコモコソックスを履いて寝ても、その中の足は一晩中冷えていたのだから。

 そう言えば実家ではFF型ストーブでガンガンに灯油を燃やしていた。

 生きることは物を買って消費することだとつくづく思い知らされる。

 お金がどうしても必要だ。

 冬に暖房費が掛かるのなら、その為に一年働かなければならないという事もアリだろう。

 この冬の寒空の中、職と家を同時に失った派遣切りの人たちに救いの手が差し伸べられ、本当にほっとしている。

 冬の寒さは人の命を奪う。

 不遇の人々が生きながら寒さで熱を奪われ、凍死していくことを見殺しにするような国でなくて良かったと思う。

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帰京の日、空は澄んでいた

 本日、実家の東北から東京へ帰って来た。

 東北自動車道をひたすら東京へ向かって走る道すがら、夕空がひときわ美しいことに気が付いた。

 夫が何度も「山を見ろ。すごく綺麗だから」と言うので少し考えてみた。

 雪国独特の雪山の美しさ、その手前にある山並みの稜線のはっきりくっきりとした美しさ、そして、澄んだ空の美しいこと。

 それは、二十年近く前、1月1日だったかに羽田から飛行機で実家へ帰った時に見た、清い空気の中に浮かぶ富士山のシルエットのようだった。

 夕空に黒い富士のシルエットを空から見下ろし、私は東京を後にしたのだ・・・。

 お正月休みは工場も一斉に稼働をストップするから、日本中の空気が澄むのだろう。

 今日見た景色の様子がそれだった。

 1月6日になるというのに空気は澄んでいた。

 そして、東北自動車道も、首都高にも渋滞はなく、車の数はとても少なくて驚かされた・・・。

 不景気になればおのずと空気は澄む。

 皮肉な話である。

 この美しい景色を愛でることが出来る人は誠に恵まれている。

 今回利用した高速のサービスエリアは前よりもサービスが良くなり、おみやげ物も試食品も充実していたし、トイレも綺麗になっていたように思う。

 多くの人々が車を手放したり、高速の利用を控えるようになった結果がそれだとすれば、これも又皮肉は話である。

 車を持てる者、維持できる者だけが享受できるサービスなのだから。

 車中、テレビでは国会中継や派遣村の話が報道されていた。

 派遣村がここまで大きな話になるとは思わなかった。

 今年は日本にとって大事な年になるかもしれない。

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自力で稼ぐこと

 私の世代の女性は、若い頃は玉の輿に乗りたいなぁ~とか、のほほんと主婦業をして生きるんだなぁ~と思っていた人が多いと思う。

 かく言う私も、普通に楽に生活できることを疑いもしなかった。

 右肩上がり経済で生きてきたのだから、親よりも金持ちになって当たり前だと思っていた。

 そして、今、不景気の波をもろにかぶり、親よりも兄弟よりも非常に貧乏な生活をしている。

 「もう、しょうがないなぁ~」と思っている。

 でも、このままでは生活が苦しくなるばかりだ。

 これからの世の中、何としてでもお金を稼げなければ辛い。

 自力で稼ぎ出すことが出来れば最高だ。

 私の場合は絵の関係でしかお金を生み出せないから、そこを頑張っているところだ。

 売れれば嬉しいが、売れなければ辛い。自分の才能や芸で勝負するのだから、結果はダイレクトに自分に返ってくる。

 良い、悪いの評価は情け容赦がない。

 でも、頑張ることに決めたから、顔が疲れようが、肩こりが酷くなろうが、白髪が出ようが、そんなの関係ない。どうだって良いことだ。

 設定目標に到達するまで努力あるのみ。

 最初のささやかな目標は達成したが、そこに安堵や幸せはない。

 次の目標達成への渇望しかない。

 楽しい精神状態かと問われれば、否と言いたい。

 ちんぷんかんぷんな事を少しずつ学び、自分の物にして、訳がわからなくても前進し続けるしかない。

 肝心の絵の方は、描けば買ってくれる友達がいて、本当に恵まれていると思う。

 でも、「これで○○の代金が払えるね!」みたいな事を人から言われたことは生まれて初めてだ。

 芸でお金を稼ぐ日が来るなんて・・・。

 嬉しいのか悲しいのかわからなくなる。

 でも、結局、一個人がお金を稼ぐ方法は、物を作って売るしかない。

 問題は買ってくれる人がいるかいないかで、それが一番大事なことなのだ。

 自分に何が出来て、それはどこで売ることが出来るのか・・・。

 考えただけではわからない。一歩を踏み出すのは自分から。でも、自分に出来ることはそこまでだ。

 そこから先は、本当に「お導き」があるのみだ。

 情熱と執念と才能、そして人柄と感受性。それが私のお金を稼ぐ術のすべてなのかもしれない・・・。

 一度に色んな事がいっぱい押し寄せてきて、今はとても疲れている。

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ムトウハップは市場から消えたが・・・

 硫酸化水素自殺1000人を越える(時事通信社)

 2008年1月から11月までの硫酸化水素による自殺者数は1000人を越えたそうだ。

 一日一人の人間が自殺している見当になる。

 その自殺方法がネットで広く世間に広まったため自殺者数が増えたということが言われ、そのため、ネット上でこの方法は有害情報として扱われることとなった。

 見つけたら削除される類のものである。

 そのあおりを受けたのは、ムトウハップと呼ばれる入浴剤の会社である。

 一方的に紛糾され、悪者にされ、この世から消えた・・・。

 確かに自殺者が増えたことは憂慮すべき事であるが、彼らは自ら望んで死んだ人間達だ。

 何故そのこととは無関係に存在する会社が操業停止まで追い込まれなければならなくなるのだろう?

 薬屋に絡む商品にはこの手の”自主規制?”がいつも顔を出す。

 ”あの”こんにゃくゼリーも薬屋で売っていた商品である。

 自殺とは関係ない別の力に消されたのかとあらぬ疑いさえ抱いてしまう。

 有害物質というならば、むしろサンポールの方が有害物質を含んでいる。

 発禁にするなら両方を発禁にすべきである。

 そして、問題は自殺者が多い社会であり、この日本国の今の現状だ。

 何故人々は死にたがるのか?

 何故人々は硫化水素自殺を選ぶのか?

 ヒステリックに騒ぎ立て、「禁止だ」「禁止だ」と叫ぶ人たちに、自殺志願者の苦しみの声なき叫びは届くことはないのか。

 職の当てもなく、食べ物にありつける目処も立たず、希望もなく、借金に追われている、そんな境遇に置かれている人たちは確実にこの日本に存在している。

 それらの人たちに向かって「死ぬ気になればなんでも出来る」と言えるだろうか?

 その状況を取り除いてやらない限り、彼らは生きていくことは出来ない。

 自殺しなければ野良犬のように野や町を彷徨い飢え死にするのだろう。

 飢え死にするのは怖いから、或いは、そんな生活を終わりにするために自殺を選ぶのではないか?

 死ぬときだって、本当に頭がおかしくなっているのなら焼身自殺でもやるだろうが、頭が正気だから、死ぬなら楽な方法を選ぶのではないか?

 なんと痛ましいことだろう。

 貧乏暮らしであっても住む家があり、家族があり、生活が成り立っている人たちにはわからない世界なのかも知れない。

 生きていこうとする希望がない。

 明日が見えない。

 そんな気持ちに人は陥る。どんな人だって陥る。特別に精神が強い人だけが生き残ることが出来るだろう。

 マスコミやメディアは真実を覆い隠し、根本的な問題点を論じることはない。

 臭い物には蓋の論法だ。

 自殺は善悪で語ることは出来ない。日本古来の宗教は自殺を禁じていない。

 苦しいとき、自分の人生の最後が首つりである姿を想像して涙が出ることがある。

 そんな最期を遂げるために生まれてきたのではない。

 余りにも惨めだ。

 自分を生み育てた両親がどんなに悲しむことだろう。

 自殺に追いやられた人々はひとりぼっちだ。

 この広い世界で、ただ一人、絶望の闇から永遠に光の見えない世界へと旅立つのだ。

 この世で辛酸を舐め尽くしたそれらの魂が救われることはあるのだろうか? 

 自殺者の増加は、その根本にある問題を解決しない限り止めることは出来ないだろう。

 それを止めるのは国の務めだ。政治、政府が今こそやるべきだ。何を躊躇しているんだ・・・。

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灯油ストーブを止めてエアコンにしたら

 このところ嬉しいことにガソリンの値段が下がっている。

 それに伴い灯油の値段も下がっていると言うが・・・。

 10月初旬に灯油を買ったときは1リットル132円だった。

 去年の12月は灯油代は月2万円近くにも上った。

 だから、今年はエアコンを二台買い換えたこともあり、思い切ってエアコンで冬を乗り切ろうとやってみることにした。

 11月の電気代は夏場の最盛期の電気代よりも1000円ほど高かった。

 11月の下旬からは寒さが本格的になったため、寝室のエアコンは最低温度に設定して一晩中付けている。

 その結果、羽毛布団の表面が冷蔵庫のように冷えることはなくなり、朝までよく眠られるようになった。

 電気毛布で布団を暖めておく必要もなくなった。

 その上で、灯油ストーブを使うよりも光熱費が数千円から一万円の節約になる。

 灯油と違い、エアコンは空気も汚さないという大きなメリットがある。

 場所も取らない。

 今後、電気会社は値上げをすると言ってはいたが、これほどまでに円高が顕著な今、当初の計画通りの値上げ幅を実現することは不可能だろう・・・。

 そんなことは許されないと思うのだが。

 暑さと違い、寒さは人の心まで凍らせる。惨めにさせる。

 お金がない若い人たちは、パソコンの熱で暖を取っているという話もある。

 辛い季節だ。

 先に窓のところに挟んだプラダンでは少々物足りなくなってきたので、先日ホームセンターに買いに行ったところ、お目当てのプラダンは残り数枚という有様だった。

 防寒に買う人が増えているのだろうか?

 時代が進み、日本もアメリカ並みのセントラルヒーティングが普及するのかと思いきや、時代は昔の貧しかった日本に戻ったようだ・・・。

 昔は我慢の他に希望があったのだが、今は我慢の先に希望を見いだすのは容易ではない。

 今日は日中日が差し暖かく、庭に出て空を見上げると真っ青な美しい空が広がって見えた。

 追記:その後の顛末はこちら↓です。

 エアコンより灯油ストーブ

 

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貧乏故に絵を売る

 今月は我が家の経済状況が芳しくなく、再び絵を売ることにした。

 お金があったら額装して手元に残しておきたかった絵だが、今後も絵を売りたいのなら売るべきというのが夫の意見だった。

 自分が手放すのが惜しい物にこそ価値があるはず。

 でも、ちょっと悲しい。

 画家の運命なのだろうか。

 私は昔からいる古典的なタイプの画家だ。

 一人のお金持ちのコレクターに買って貰い、そのお金を生活費の足しにしたり、新しい筆を買う・・・。

 それで良いのだ。

 貧富の差が芸術を育てる。

 働きに出ているわけじゃないのだから、家にいながらにして収入を得られる道があるだけマシではないか・・・。

 お金と感動は確かなモチベーションになる。

 次はもっと驚かせてやろう!

 物作り日本の端くれとして、私も頑張る。

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福田総理が辞任した日

 昨日、久しぶりに食品マーケットへ出掛けた。

 夏休みに旅行へ出ていたり、その後仕事が忙しかったり、天気が悪かったため、なかなか出掛けることが出来なかった。

 なんやかやでマーケットに着いたのは昼近くになってしまった。

 肉屋さんに行く途中、いつも買う八百屋さんが片付けをしていた。

 店を閉めたのだという・・・・・・・・・・・・・。

 つまり廃業という意味だ。

 とてもショックを受けた。

 マーケットに行き始めてから一年以上になるが、雨で野菜が不作で野菜の値段が高騰した年があったが、その地点がターニングポイントであったよう思えた。

 夏いっぱいで店を閉めたと言うことは、今年の春には決断されていたのではないだろうか?

 同じマーケットの中には数軒の八百屋さんがある。

 最近、ニュースでもやっていたが、野菜は売れていないという。

 売れ行きが悪ければ、日持ちの悪い野菜を取り扱う八百屋さんは苦労するはずだ。

 自営業の夫は特に衝撃を受けたようだった。

 あの悪天候だ。

 八百屋さんの営業の最後の日も、お客はあまりなかったのではなかろうか?

 昭和の匂いのするマーケットであるが、中小の料理屋、外食産業の縮小は、マーケット全体の売り上げにも深刻な打撃を与えているだろう。

 一般のお客を取り込もうにも、今や食にお金や手間を掛ける家庭はごくごく少数派だ。

 今まで当たり前のようにあった商売が成り立たなくなり、風景が変わって行く。

 収益が少ない商売であれば、跡を継ぐ子供もいないだろう。

 寂しい気持ちと共に、あそこのマーケット全体が閉鎖されてしまった時には、もっと都心よりのマーケットに行かざるを得ないだろうと現実的な算段をしたりもした。

 どんどん日本国内の経済が縮小し、庶民にとっては生きずらく辛く暗い方向へ向かって行くのかと思って落ち込んだ。

 そして、その夜である。

 たけしのTVタックルを見ていたら、福田総理辞任の速報が入った。

 「動いた」と思った。

 すべてが総選挙に向けて、動き出したのを感じた。

 次の選挙は日本国民にとって「関ヶ原」と言っても過言ではないだろう。

 天下分け目の決戦だ。

 このまま自公政権支配で痛めつけられ苦しい生活が未来永劫続くのか、多少なりとも光明が差して見えるのか・・・。

 日本国民、有権者は、覚悟を持って選挙に行かなければならない。

 新しい政権に希望を持つことが出来るのなら、より多くの商売、産業が、新しい時代に間に合って欲しい。

 それまで死なずに生き残って欲しい、と切に願う。

 

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野菜の卸値下落

 テレビのニュースで7月から野菜の卸値が下がっているとあった。共同ニュース

 群馬県嬬恋村からキャベツが東京に届けられ、歩行者に無料でキャベツが配られる映像が流れた。

 全く驚くに値しない。

 農家の人たちは「どうして値段が下がるのかわからない」と言っていたが、消費者が野菜を買い控えているから野菜が売れないのだ。

 野菜はもちが悪く、メインのおかずにもならないので、割高感のある食材である。

 疲れているときに元気が出るような食材でもない。

 不景気や雇用形態の変化で収入が減り、食費さえも削らなければ生活していけない家庭が増えた。

 お金や人生の遣り繰りは年単位ではなく、月単位だ。

 十年後の健康よりも、月々の節約と積立貯金の方が大事だという考え方だ。

 気持ちや気分、健康という数字に表れないものは無視し、数値目標だけを追いかけるというところは日本のお役人たちと似ている。

 家族3人で食費を3万円に!なんて言っている主婦は、野菜などを優先的に買うことはないだろう。

 栄養は二の次三の次で、安くてお腹にたまり、それだけで主菜になるような食材が好まれるのが現実だ。

 肉や魚に行けば良いが、揚げ物やどんぶり物、麺類や加工食品に行くケースが多いのではないだろうか?

 高カロリーの食品を少量食べることで食費を節約しているような気がする。

 当然、体にはよくない。

 カロリーを気にする必要のない野菜を沢山食べ、肉や魚をバランスよく食べる・・・。

 そんな健康的な食生活は、残念ながら安価には出来ない。

 意外と貧しい食生活を送っている家庭は少なくない。(お金があってもだ)

 太らなければ健康だと思っている女性も多いようだし・・・。

 今年の夏休みは嬬恋方面へも足を伸ばした。道路沿いの野菜売り場にも観光客は来ているのだが、その観光客自体が今年は減っている。

 観光地の道の駅でも一生懸命野菜を売っているのであるが、その売り上げだけではどうにもならないのだろう。

 国内の景気が上がらない限りこの傾向は続くと思われる。

 野菜が売れなくなった場合、出稼ぎやアルバイトで収入の不足分を補えれば良いのだろうが・・・。

 お金は回らず、不景気の悪循環だけが国内の隅々にまで広がっていくのを感じる。

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車が減った夏休みに思う

 今年の夏休み、軽井沢を走る車は以前と比べて激減したように見えた。

 長く続く不景気プラス原油高騰、物価高によって、それまでじりじり落ちてきた日本の国内景気がここにきてガクンと落ちたというわけだ。

 バス停でバスを待つ家族連れ、自転車に乗る家族が目立った。

 八ヶ岳方面を回って帰ったが、こちらの道もまた空いていた・・・。

 この傾向は来年も続くのだろうか?

 だとすれば、今、車で旅行が出来る人たちは「勝ち組」に入るのだろうか?

 ガソリンを車に十分に給油し、高速道路を使い、サービスエリアで買い物をし、出先で外食や買い物、宿泊をする・・・ことは今は誰にでも出来ることではないのだろうか?

 旧軽井沢銀座でも歩く人の数は例年に比べて少なく、買い物をする人はもっと少なかった・・・。

 それでサービスは向上すれば良いのであるが、そうはならない。

 売り上げが落ちれば気持ちは間違いなく落ちる。

 そのことは町の雰囲気にも影響を与える・・・。

 温暖化は避暑地にエアコンの必要性を生み出し、不景気は設備投資の障害となる。

 これから軽井沢は温暖化によっても危機に立たされる可能性がある。

 必要な設備を投資出来ない観光地は陳腐化する。

 ほかの避暑地にも同じことが起こるだろう。

 天候に運命を左右されるのは人間に限らない。

 うちの近所の蛍たちも、数年前の大雨の時を境にめっきり数が減った。

 そのような大きな変化が起こると、なかなか元の姿には戻らない。場合によっては二度と同じには戻らない。

 「軽井沢の葉っぱは埃っぽいね」

 帰り道でうちの母がつぶやいた言葉が悲しい。

 それは埃ではなく火山灰なのかもしれないが、それは間違いなく別れの言葉であったのだから。

 政権が変わって景気がよくなれば、またにぎやかな避暑地の風景が戻ってくるのかな?

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節約について

 先月、ガス代の節約に成功した!

 とても嬉しかった。

 だが、四六時中節約のことばかり考えるのは気が滅入るし、イライラする。

 最近、一番イライラするのは、「車は贅沢品!」みたいな言葉だ。

 戦時中の「贅沢は敵だ!」みたいで凄く嫌だ・・・。

 我が家にはその車が複数台ある。

 どれも屋根付きの車庫に入っていることが夫の自慢だ。

 夫の夢は用途に合わせて何台かの車を持つことだったから、華麗なるラインナップとは程遠いが、ある程度の部分で夢は叶っていることになる。

 貧乏人のくせに馬鹿だ贅沢だと眉をひそめる人もいるかもしれないが、こんな時代でも夢の部分がある人間は間違いなく幸せである。

 今更売ったところで幾らにもならないし、よって、将来お金に困っても車を売ることはない。

 我が家の場合、雨漏りしている屋根を優先的に直すべきなのに、そのお金があったら、絶版になった車のパーツを先に買ってしまいそうだ・・・。

 夫に言わせると買い物も一期一会なのだそうだ。

 それはお金の使い方として正しいのか正しくないのか、絶対的な尺度はこの世に存在しないはずだ。

 人間には考える脳と、感じる脳がある。

 元気や生きる喜び、頑張りというものは、実は「感じる脳」から出てくるパワーのような気がする。

 節約や将来の備えといったことを考えても、そこからパワーは生まれてこないだろう。

 だから、節約や備えのことばかり考えていると、気が滅入るのかもしれない。

 たまには「感じる脳」に快感という名の栄養を与えてあげないと人間は駄目になる。

 その一つが好きなことにお金を使うことだと言えるだろう。

 好きなことが何かによっても、人生は大きく変わる(又は乱高下する)可能性を秘めている・・・。

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ガソリン代180円

 新しい地図ソフトを入れたので、用事で出掛けたついでに試運転を兼ねて久々にあてどもなくドライブに出た。

 テレビのニュースで言っていたように、道はガラガラだった。

 これは去年の秋頃から感じている事だが、今回のガソリン高騰の影響か、更に激しく道路は空いていた・・・。

 車窓から眺めていると、一戸建ての家の駐車場に車が止まっているところを見ると、皆、自家用車は依然として持ち続けているようなのだ。

 だが、乗るのを控えているのか。

 その一方で、東京郊外のあちこちで、まだまだ道路建設は進んでいる。

 新しい道路は素晴らしく立派なものだ。

 そのくせ、既存の道路のアスファルト施工の質が低下しているようだ・・・と夫が言っていた。

 アスファルトが均一に敷かれていないのだ。

 熟練した職人はいなくなり、派遣の作業員が工事をしているのだろうか。

 たかが道路工事であっても、やる人によって出来は変わってくる。

 大部分のドライバーは気付かないことだとは言え、こういう「見えない変化」の積み重ねが形となって現れたのが今の絶不調の日本だ。

 立派な道路があっても、ガソリンが高くて車に乗ることが出来ない。

 そのことに政府は何の手も打たない。

 手も足も出ないと言えば良いだろうか。

 幸いと言って良いのか、うちの周りはガソリンの値段は180円に達していないところが殆どだ。

 売れないから値段を上げられないのだろう。

 だが、いずれガソリンの価格の高騰からは庶民は逃れられない。

 首都高や高速と言えば、渋滞、渋滞、とさもそれが大問題のように言うけれど、バブルが崩壊してから本物の渋滞に出くわしたことがない。

 本物の渋滞とは、何十分も何時間も全く車が動かなくなる状態を言う。

 右肩下がりで交通量は落ちてきていたのではないか?

 普段、電車で家と会社を往復しているだけの人には、その変化は矢張り「見えない変化」だっただろう。

 通り沿いの店が潰れては入れ替わり、更地になり、空き店舗が増える。

 普段、車に乗らなければ見えない変化だ。

 交通事故死亡者が減ったのも、実は交通量が減ったからに他ならない。

 数は減ったが、遺族の加害者に対する恨みは激しくなる一方だ。

 これだけ国内経済が縮小していると言うのに、政府は洞爺湖サミットでCO2削減を目標に掲げていたし、東京都もCO2削減の条例を先頃可決したばかりだ。

 家族を持つ国民の多くは、夏休みの行楽のために今は節約をしている時なのかもしれない。

 今年の夏休み、行楽地の人出が見物だな・・・と思っている。

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旅行の計画

 毎年、私の両親と4人で信州旅行に出かけるのだが、現在、その準備に余念がない。

 旅行費用を親が負担してくれるため、私は皆のために楽しい計画を立てる義務があるのだ。

 東北在住の両親が二人だけじゃとても行けないような所へ行くことがポイントだ。

 親孝行のつもりといえば、不遜だろうか?

 うちには犬が一匹いるため、彼のことも考えなければならない。

 今年は思い切って、今まで行ったことのない高い所へ行こうと思っている。

 自家用車でなければ楽しめないような、景観を車窓から楽しむような旅行を企画中である。

 こんなドライブ旅行が家族から好まれるのは、ひとえに我が夫の運転テクの上手さにある。

 臨機応変、いかなる場所でも車庫入れカモーンな運転手は実に頼もしい。

 が、早くも厳しい現実に出会っている。

 毎年立ち寄るところが幾つかあるのだが、すでに二軒ほど閉店するという話を聞いた。

 う・・・・む・・・・。

 一昨年には人でごった返していたその場所が、去年はそうでもなかったことが印象に残ってはいるが。

 厳しい避暑地の現実だ。

 確実に行楽客は減っているのだ。

 今年は不況に加えてガソリン価格の高騰があるから、去年よりも人出は少ないと思われる。

 我が母が一番楽しみにしているのはショッピングだから、お願いだから、商店街だけは寂れていないで欲しい。

 大好きな蕎麦のお店も去年と変わらずに、そこにあって欲しい。

 バブルが崩壊した後に伊豆の温泉街に行ったことがあるが、不況という名のまるで津波にでも襲われたかのような有様だった。

 それ以来、伊豆方面へは足が向かない。

 時代と共に景色は変わるだろうが、こういう変わり方は余りにも悲しい。

 旅とは本当に一期一会なのだなぁ、と覚悟を持って旅行に出掛けたいと思った。

 2008年の夏休みは一度きりなのだ・・・。

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電気料金の値上げ

 いよいよ本格的に電気料金が値上がるらしい。

 東京電力が値上げの発表をした。

 原油価格の高騰と、地震による柏崎刈羽原子力発電所の操業停止による不足分を火力発電所で補ったための燃料代の増加、などが主な値上げの理由だそうだ。

 ここで注目すべきなのは、料金基準そのものを改定することだろう。

 私が前に電気代節約と電力会社にも書いたことであるが、今、日本の各家庭では電気代節約が盛んに行われている。

 電気量の使用量は減る傾向だと思う。

 我が家を例にとっても、今年の5月の電気料は去年の5月から35%減になっている。

 万が一、各家庭が毎月35%の節電に成功しているとしたら、家庭向けの売り上げが単純計算で35%下がることになる。

 それは電力会社にとっては喜ばしいどころか、経営の危機になるだろう。

 普段、エコだ何だと宣伝している電力会社であるが、電気使用者の節電と言う名のエコ活動と電力会社の関係はwin-winには成り得ない。

 そこに着目したい。

 今回の電気料金の値上げで、電力会社は基本料金を上げてくると思われる。

 みんなが電気を使わなくなり、電力会社の売り上げが低下すれば電力会社の経営は成り立たない。

 それは当たり前のことだ。

 企業努力でもどうにもならないところまで追い込まれれば、値上げをして会社を維持する方向に走らざるを得ない。

 これは電力会社だけではなく他の企業にも言えることで、不況や労働賃金、消費などの落ち込みが止まらない日本経済においては、益々負のスパイラルに入っていくということだ。

 節電して生活が楽になるかと思いきや、電気料金の値上げによってその道は阻まれる。

 せめて好きなものを腹いっぱい食べたいと思っても、それも雲行きが怪しい今日この頃である。

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廃業という選択

 長く続く不況や日本の社会構造の変化、規制緩和によって、今まで良かった商売が傾いてきたり、今まで成り立っていた商売が成り立たなくなったり、競争が激化したり、消費全体が落ち込んで売り上げが下がったりで、零細な自営業は存続の危機にさらされているところが少なくないだろう。

 少子化によるビジネスの縮小は前から言われていたことであるが、少し前まで言われていた、孫ビジネスも思ったよりも伸びていないように思える。

 団塊の世代の大量退職によるビジネスチャンスも当てはずれだったのかもしれない。

 地方では大型店の進出で、零細な小売店は太刀打ちできずに淘汰されていく。

 親から受け継いだ仕事とか、小さな商いで細々と長く暮らしていくということは今は難しくなってきている。

 それに加えて、天災がある。

 地震や土砂崩れ、大雨、洪水などで家や家業を失う人だっている。

 今回の宮城・岩手内陸地震でも、壊滅的なダメージを受けた農地や道路は復活しないだろう。

 その上、今は地球温暖化や環境問題がある。

 環境に関する規制は厳しくなり、環境に関する経費は増加し、小さな業者はそれについて行けなくなるだろう。

 そればかりか、環境保護を推し進めることによって、全体の経済活動は弱くなるに違いない。

 人間の産業が栄えるということは、ある程度の環境破壊は避けられない。

 その環境を最優先にするならば、多くの産業は縮小せざるを得ない。

 環境ビジネスが栄えるというなら、それはある種のまやかしと感じる。

 プラス、原材料費の高騰、ガソリン、原油価格の高騰がある。

 人々はより少ない就業の機会、より少ない収入、より少ない消費、省エネルギー型の生活を受け入れなければならなくなる。

 そのことに、私たちはどれだけ耐えられるのだろうか・・・。

 うちの周りでも次々に商店や事業所がなくなって行く。

 店を畳んだ経営者はどこへ行ったのだろう?

 そこに勤めていた人たちはどこへ行ったのだろう?

 自分も自営業者の端くれだから、人ごとではないと思える。

 零細な小売業者は実業家とは違う。

 時代によって違う商売を展開し、売り抜けるなんて芸当は出来ない。

 そんな資本力はないのだ。

 自分が始めた商売をコツコツと真面目に続けて行くより他にはない。

 その中で出来る工夫はする。その程度のことだろう。

 大きくて強いもの、公共性の強いものは生き残り、弱いものが生き残るのは厳しくなっていく。

 長く続けた家業や商いを廃業することは、かなり辛いことだと思う。

 精神的な辛さだけでなく、生業を失うという経済的な辛さは計り知れないものがある。

 働いてお金を得ることの辛さこそ、今、日本人が最も共有できる感覚なのかもしれない。

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国を蝕む糖尿病(II型)と言う病

 先日、お笑い芸人のウガンダさんが亡くなったという。

 朝のワイドショー情報によると、ウガンダさんは糖尿病を患っていたという。

 若い頃に糖尿病を発症し、その後、きちんとした血糖値管理や食事療法が行われなかったのであれば、50代で合併症で亡くなるというのは驚くことではないと思う。

 糖尿病(II型)は生活習慣病と呼ばれているが、日常の食生活によって一生が左右される病気の一つである。

 毎日の食事が栄養的に偏りがなく、量も適正であれば、殆どの人は糖尿病の影に怯える必要はない。

 だが、悲しいかな、人は美味しいもの、甘いものが大好きときている。

 高齢のお婆ちゃんのウエスト周りがどーんと太いのも当然だ。

 食が細いといわれているはずの高齢者の買い物籠の中に、6個1パックのアンパンが入っていたりするのだから。

 よく糖尿病は体質とか遺伝とかいう人がいるが、生活習慣病と言う名から考えて、同じ生活習慣を持つ一家で生活習慣病に罹患することは当たり前のことである。

 更に、間違った食生活が代々受け継がれるのだから、生活習慣病と縁を切ることができないのだ。

 ただ、昭和の時代に戦争があったから、その時代に人生の一部が掛かっている人たちは、食べられなかった時代があった分、重度の糖尿病に掛かっている人は比較的少ないはずだ。

 問題はそれらの人たちの子供や孫なのだ。

 食糧難という時代がなく、次々に新しいスナック菓子が登場し、時代が右肩上がりで色んな美味しいものが日本に入ってきたり生まれた。

 お手軽に食べられるお菓子が出てきたのだから、多くの国民がそれに飛びついた。

 食べ物や栄養、食品添加物に無頓着な親は、スナック菓子に子守をさせるようなこともあったと思う。

 その時代に子供時代をすごした人たちが、今、糖尿病を患っている。

 どんなに暴食をしても、体質にもよるだろうが、血糖値が上がるまでには時間が掛かるものだ。

 30代くらいまでは血糖値は正常値だったものが、40代に入った途端にポーンと跳ね上がるということもある。

 それがわかるのは毎年健康診断を受けているからだが、健康診断を受けていない糖尿病患者の多くは、合併症を発症してから気付くことが少なくないだろう。

 その場合、いわゆる手遅れになっていることが殆どだろう。

 私の知人も意識障害を起こして救急車で運ばれ、まもなく人工透析を始めることとなった。

 子供の頃から肥満だったので、糖尿病の合併症が起こるまでに大体、30年くらい掛かったことになる。

 第三者的に見て、手遅れな状態なのだが、食生活を改善した形跡は今もって見られない。

 人工透析、壊死、切断、車椅子、そして、今後は寝たきりになりそうな状況であるが、その先は長くないように思える。

 その人工透析であるが、糖尿病患者が罹るのは糖尿病性腎症と呼ばれ、人工透析になる原因の第1位だそうである。

 一人当たり月間50万円ほど掛かるという話をネットで読んだ。

 患者の自己負担金は東京都では1万円だという。

 そのほか障害者手帳や障害者年金が貰えるはずだ。

 糖尿病の患者が増え、人工透析をする患者が増えることによって、こんなにも国に負担が増えるのである。

 人工透析を始めてからの生存率は5年で5割と言われているが・・・。

 私の知人のような子供の頃から間違った食生活を与えられ糖尿病になった人も気の毒であるが、今、これからの糖尿病患者を取り囲んでいる問題はもっと深刻で根が深いと思う。

 この不景気とストレスだらけの現代の日本では、落ち着いて正しい食生活を送ることが出来る人は本当に恵まれた一部の人たちだけではないだろうか?

 生活がキツキツなのに、豚の赤みの肉を買い、家で余分な脂部分を取り、細かくしたり挽いたりするなんて出来るだろうか?

 大部分の人は、予め安く売っている豚ひき肉や細切れ肉、ばら肉を買うだろう。

 それらの肉には脂がたっぷり入っているが、その脂部分を包丁で切ることが出来るかどうか???

 健康を取るか、脂(肉の値段のうちに含まれている)を取るかの問題だ。

 月々3万の食費に抑える、などとやっている主婦にそれが出来るとは思えないが。

 先進国は健康志向が高くなり、脂余り現象が起きているという。

 その脂(先進国にとっては廃棄物)を後進国に安く輸出している畜産国があると何かの本で読んで驚いた。

 この話から読み取れるのは、貧乏人は脂を食べる・食べざるを得ないという食生活の中の貧富の差が国レベルで起きているということだ。

 脂は売れる。何故なら美味しいからだ。

 このことは間違いなく、日本国内でもすでに起きている現象だと思う。

 収入が低いために健康的な食生活を選べない人たちが、生活を守るために自転車操業で働くと、更にどうでも良いものを食べるようになるような気がする。

 生活に精神的な余裕がなければ、豊かな食生活などできるわけがない。

 だから、病気になる。

 自分で食事の支度を出来る時間的、体力的余裕がある人は良いが、夫婦共働きでギリギリの時間で暮らしている人たちは、冷凍食品やレトルトなどの加工品、スーパーのお惣菜に頼らざるを得ない。

 加工食品の中にはコストを極力下げて儲けを最大限にするという企業論理がもれなく入っているのだから、食品としてのグレードは推して知るべしだ。

 先日、チーズのコストを落とすために、ラード(動物性脂)を混ぜているという話を聞いた。

 そのチーズ加工品の用途は、冷凍食品や加工食品など外食産業だという。

 現代は不況のため、様々なストレスを抱えている人が多く、そのストレスも食い気に走る原因となる。

 疲労をバックアップするために、味の濃いもの、糖分、塩分過多の物を食し、常に脳を活性化して生きている人も多いはず。

 このような人たちは自身の健康と引き換えに生活の糧を得ているのだから、どうにもならない現状がある。

 その今、何故メタボなのだろうか?

 政府がメタボ対策に躍起になっているようだが、これらは政府の支出削減の一環だろう。

 透析にかかる医療費は年間約1兆円以上とも言われている。

 国は人工透析の費用などを負担したくないが為に、その前段階としてメタボ対策キャンペーンを張っているのだろうか?

 糖尿病患者の人工透析に掛かる国の費用は大きいものかもしれないが、患者の自己負担額が極端に増えた場合、透析を受けたくても受けられない患者が出てくるのではないだろうか?

 そして、患者にとっては、透析を受けられないということは死ぬことを意味する。

 国がやっていることは、国民に生活苦を強い、健康管理さえままならない状態に追い込んでおきながら、いざ病気になった国民には手をさしのべるどころか、切り捨てようとありとあらゆる手を講じているということだ。

 お金がない、貧乏暮らしをしているだけでも人間にとっては大きなストレスだ。

 明日どうなるかわからない、今月の支払いが出来るかどうかわからない、子供の学費を先々まで手当てできるかわからない、・・・、先の見込みが全く立たない不安的な生活がストレスを生み、国民の健康を蝕んでいることから政府は目を逸らすべきではない。

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給食費の滞納--お金があるのに?

 公立の小中学校の給食費の滞納が問題になって久しいが、その報道の中にきわめて不可思議な表現があることにお気づきだろうか?

 「お金があるのに払わない父兄がいる」そうなのだ。

 どういう意味だろう?

 最近の日本はこんな話で溢れていないか?

 「車が買えないのではない、買わないのだ」とか、「結婚できないのではない。結婚しないのだ」とか。

 何を隠したいのか、格好つけているつもりなのか、こういう欺瞞が国中に溢れている。

 金がふんだんにあるのに給食費を払わない家庭があるだろうか?

 何か特殊な政治信条でもない限り、経済的に何ら問題ない家庭なら給食代くらい払うだろう。

 こんなイカサマちっくな報道がまかり通っていることに大きな疑問を感じる。

 常識が常識でなくなり、社会通念が社会通念で無くなる。

 報道するテレビ局の社員が疑問を抱かないのは道理だ。

 高給取りの人たちには、月数千円の給食費を工面できない家庭の事情など想像も出来ないことだろう。

 マスコミは一体何を人に見せたいのだろう?

 バブル崩壊後の長く続く不況と、グローバル競争に絡ませてコスト最優先の雇用体系の促進によって、給食費さえ払えないほど貧窮している家庭が目立つほどに増えていることを、そんなにも隠したいのだろうか?

 世界に誇る?日本人の貯蓄高も減る傾向にあるというのに。

 現実は税金、授業料、給食費、家賃、年金、健康保険、などなどを滞納し、食べるのに精一杯、車を持つことなど夢の又夢、そんな家庭が激増しているというのに。

 だからと言って、私は給食費を滞納している生徒に対して、即給食を食べさせないということには大反対である。

 同じ学校内で、お金のある家の子供は給食を食べられ、お金のない家の子供は給食を食べられないという状態は作るべきではないと思う。

 この強烈なコントラストに耐えられるように日本人は出来ていないと思う。

 今でさえ、一部の20代の若者達が精神的に追い詰められ、半ば精神的に病んだ状態に陥ってしまっているというのに、これ以上、貧富の差で子供達を苦しめては、将来のうつ病患者、自殺者予備軍を大量に作り出すことに他ならない。

 マスコミは大スポンサーたる大企業のご機嫌取ったり、政府の宣伝活動に終始するだけでなく、事実を報道し、広く国民に問題提起をする義務があるのではないだろうか?

 新聞報道を信じて金を払い新聞を取っている人たちが気の毒というものだ。

 「お金があるのに給食費を滞納する父兄」という報道では、その人たちがけしからぬだけであって、なんとしてでも給食費を取り立てる方向へと世論を誘導しているとしか言いようがない。

 給食費も払わぬ者が、車を持っていたり、マンションや持ち家だったり、生命保険を掛けていたりしているのなら、それらのものを処分してでも給食費を払えと言わんばかりだ。

 その持っているものがどういう状態になっているかも調査もせず、十把ひとからげで言っているんだろう。

 ローンが残っていたり、生活のために車が必要だったり、その車もローンだったり・・・、現金が足りないってことだってあるだろう。

 行政指導も入っているに違いない。

 国の指導により生活保護を打ち切られた老人が餓死するご時勢だ。

 国が少子化対策をやっていると言うのなら、義務教育中の給食代は無料とやれないのか?

 全く金の使い方、生かし方がわからない馬鹿政治家ばかりで呆れる。

 更に貧困な家庭では、子供に与える食事も質素になり、下手をすれば給食だけが満足に栄養が取れる食事という家もあるかもしれない。

 米がふんだんに余っているというなら、外国に出すのではなく、日本国内で生きた使い方をするべきではないか?

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若者と貯金

 先日のテレビ東京「新ニッポン人現る」に出てきた、コツコツ貯金をする若者を見て、その目的の無さと金額の少なさに驚かされた。

 手取り17万円の給料のうち、毎月2~5万円貯金をしているのだという。

 はっきり言って、月2~5万円の貯金しか出来ない人に車は所有できない。

 年齢によって給料が大幅に上がれば、どこかで持つことは可能だろうが、今のような収入額では一生車は持てない。

 家も持てなければ、結婚しても一生共働きだ。子供をもうけ育てるのはかなり難しいだろう。

 何年か貯金を続けているという彼の貯金通帳の残高は桁の数から判断して、大した金額ではなかったように見えた。

 一人暮らしをしていて、実家からの援助は一銭も貰っていないようだった。

 終身雇用制も当たり前ではなくなり、大企業以外の会社はいつなくなるかわからない不況の今、実家や身内からの援助が全く期待できない一人暮らしは、大海の中の木の葉のように不安だと思う。

 借家とは、所詮は仮の宿だ。

 家賃が払えなくなった時点で住む場所を失ってしまう・・・。

 昔の若者が貧乏でも車を買ったり、お金を使えたのは、お金がなくなったらバイトでもすればいいとか、最悪、実家に援助して貰えばいいとか、足りない分は次の給料でとか、次のボーナスでというお金の回し方が可能だったからだと思う。

 今の若者にないのはそれだ。

 安定かつ継続的な収入もなければ、経済的に行き詰まったときに当てになるセイフティネットがまるでないのだ。

 だからせっせと貯金をして備える。

 だが、何かがあったときに、数十万円の貯金で対処できるかどうか?

 正直言って、若者の数十万の貯金よりも、親や身内のサポートのほうが遥かに有効な気がする。 

 そして、めでたく節約生活が実を結び、十数年後、ある程度のまとまった金額になったときに、お話にならない利息の銀行にお金を預けるよりも、そのお金を”賢く”増やそうと画策しないとは限らない。

 何故ならば、物欲がない人間などいないからだ。

 世の中にはいたるところに罠が張り巡らされている。

 持ち金を増やしたいが為に、虎の子のお金を騙し取られてしまう、或いはスッてしまう人は後を絶たない・・・。

 コツコツ堅実に貯めた人が引っ掛かるのだ。

 しかしながら、人生とは不公平なものだと思わずにはいられない。

 私の知っている堅実を絵に描いたような大手企業に勤めるサラリーマンは、30代後半で結婚するまで寮暮らしではあったが、ちょっとした趣味を持ち、普通の国産自家用車を所有していたが、結婚したときには数千万円の預金残高があった・・・。

 忙しくてお金を使う暇がなかった、というのもあるかもしれないが。

 シンプルイズベストが信条で、堅実ゆえに無駄遣いは一切せず、買い物も吟味して買うと言われている今の若者と似たテーストがあると言えば言えるだろうが、違いは酒飲みであるということと、その貯金額の桁違いの多さだろう。

 そういえば、華美な結婚式など一切しなかった。

 企業が物を売り込む相手は、こういう人たちである。

 堅実な暮らしをする人は昔からいた。バブルで浮かれて、日本人全員が金を使いまくっていたわけではないのだ。

 変わったのは、普通の日本人が安定かつ継続した収入を得るチャンスが激減し、生活レベルと精神レベルが著しく下がったということだ。

 コツコツと貯金をする若者の生活は、年金暮らしの一人暮らしのお年寄りの生活と似ているかもしれない。

 今以上の収入増の見込みがなく、援助してくれる身内もなく、破綻した先には生活保護か、ホームレスしかない・・・。

 それを堅実で良い生き方だと誰が言うのだろうか?

 若者が貯金をすることは堅実で良いと言う人がいるが、その本質を全くわかっていないか、直視しようとしていない。

 20歳そこそこの若者が老後のために貯金をするという、現代の日本の悲惨さが全くわかっていない。

 こんな新ニッポン人を生み出したのは、すべて日本政府と社会の責任だと思う。

 今の日本の状態が昭和の日本の状態に戻らない限り、更に悲惨な社会になることを何でテレビやメディアは言わないんだろう。

 先日の久米宏の番組は、一見お茶らけバラエティ番組のテイストでやっていたが、新ニッポン人と言うくくられ方をした若者は、従来の日本人にあらず、変わった奴らというレッテルを貼って片付け、世の中の動き方の異常さを隠す狙いもあったのかもしれない。

 「物欲のない人種」と片付けられた若者に物や金を渡す必要などないと、公の場で認定したのと同じことだ。

 若者達はそのことに対して危機感を抱くべきだ。

 苦しいなら苦しい現状を形にしなければ、この国や企業にとって不要な者として片付けられないとも限らない。

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新ニッポン人という名の新しい自分

 今日、テレビ東京で久米宏がお金を使わない20代の若者を「新ニッポン人」という切り口で紹介していた。

 内容は目新しいものではなく、私が以前「不況の中の若者たち」に書いたようなことを、当たり障りなく、別の切り口で紹介したというものだった。

 トヨタ自動車社長と久米の対談の中で、渡辺社長が大変興味深いことを喋った。

 「子供の頃から、車があって当たり前ということが大事だ」と言うようなことを話していた。

 これは私も普段から思っていることである。

 車不要論をぶちかます若者を見掛けるが、果たして彼らの子供時代、彼らの家には自家用車があったのだろうか?

 なかったのではないか???

 子供の頃に家族でドライブして楽しかった思い出、車で送って貰ったり、迎えに来て貰ったりした体験がないのではないか?

 車で楽しい、便利な思いをした経験がなければ、「車があって当たり前」という考えにはならないだろうし、車がなくても楽に生きられるはずだ。

 ちょっと不思議なのは、自分の家に車がなかったとしても、子供時代から20代に至るまでに、車や車に関わるシーンを目にしないで生きてきた日本人はいないだろうが、その間、一度も憧れや欲しいという気持ちは抱かないで来た人なんかいるのだろうか?

 今の20代と言えば、その親達は、バブル崩壊後にリストラの憂き目にあったり、賃金が下がったり、経済的に不遇の時代を生きてきた年代なのではないだろうか?

 その親の姿や自分の家の家計状況を目の当たりにして、子供心に欲望を封印してしまったのではないだろうか?

 お金がないならないなりに精神的に破綻せずに生きる生き方が、お金を使わない生き方なのだ。

 それは若くして経済的な苦労を見てきた若者達が生きていくために生み出した、新しい自分なのだろう。

 まるで多重人格者の成り立ちのようで、考えれば考えるほど心が苦しくなる。

 トヨタ社長の渡辺氏は、子供の頃から車に関わって貰うために、イベントの場に子供が車と触れ合う機会を多数設けているようなことを話していた。

 なんか違うな~、と思った。

 その後は、全く当たり障りのない「車が売れないのは、自動車メーカーにも責任があるんです」という、メディア向けの話だ。

 だが、私に言わせれば、日本の自動車メーカーの責任はそんなことではない。

 日本の自動車メーカー、大企業が利益を追求するが為に、日本国内の雇用形態が変わったことは日本社会に大きな影響を与えた。

 社会の不安定化、格差社会の誕生と助長がそれだ。

 内需を支えるはずの国民の収入は減り続け、財布の紐が締まるどころか、ない袖は振れない状態にまで落ちた。

 このことに対する責任を無視することは許されない。

 安定収入、将来に対する安心感がない、アルバイト中心の雇用体系を企業が採る限り、家に自家用車がある子供達が増えないばかりか、その子供の元となる結婚の機会さえ生まれない。

 トヨタの渡辺社長は、お金のない若者に向けて魅力ある車作り(インドのナノのような車?)などと机上の空論をインタビューでにこやかに語る前に、他にやることがあるだろう。

 トヨタだって馬鹿じゃないんだから、何故車が売れなくなったかは十分な調査が出来ているはず。

 そのことをごまかし、若者の欲しい車がないと語る渡辺社長には怒りを覚えた。

 ヘラヘラとパンチの全くないインタビューを取る久米宏もどうかと思う。

 民放できつい突込みを入れると、番組自体持たせて貰えなくなるというのだろうか???

 そのほか、つましく暮らし、せっせと貯金を続ける若者が紹介されていたが、貯金をする若者の貯金の目的の多くは、なんと「老後の為」だそうだ。

 果たして10年後、その貯金が残っているのかどうか・・・?

 将来に不安を感じているとすれば、国民年金や健康保険の類は、ちゃんと払われているのだろうか?

 貯金をする同じ人が年金や保険代を払っていないとは言えないが、若者の不払いは多いと聞く。

 コツコツ貯金をする若者の裏側に透けて見えるのは、何かあっても誰も当てにできないという厳しい現実だ。

 まるで孤児のようだ。

 親さえも当てにできないとわかっているから、彼らは貯金せずにはいられないのだろう。

 最後に、若者とお酒の話だが、何が言いたいのかさっぱりわからなかった。

 できれば、会計の方式とかを映して欲しかった。

 私の勘では、昔のような割り勘がなくなり、自分の飲んだり食べたりしたものだけを、きっちり払っているのではないだろうか?

 この番組の物を買わない若者というのは間違いで、本当は物を買えない若者というのが正しいだろう。

 買わないのと買えないのとでは、差は大きい。

 この差が、日本の格差のひとつでもあるのではないだろうか?

 日本の不況が生み出した、負の精神的創造物とも呼べる「新ニッポン人」という日本人の精神の根底を揺るがすような問題を、あんなにも軽々しく面白おかしく紹介する番組の姿勢には共感できなかった。

 ところで、小池ゆり子を呼んだ意味がどこにあったのだろう?

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消費者のニーズって?

 大阪くいだおれの閉店に絡むメディアや個人のブログの分析の中で、とても気になる言葉があった。

 「消費者のニーズに応える事が出来なかった」という言葉である。

 この言葉は何かの商売が駄目になったときに便利に使われる言葉であるが、果たして、それは物事を正しく伝えているのだろうか?

 では、消費者のニーズとは何だろう?

 今は一人暮らしの若者が、食費節約のために自炊をするご時勢である。

 安くて良いもの、美味しいものが手に入ればそれに越したことはないが、物には限度と言うものがある。

 たとえば、ハンバーグであれば、ひき肉や玉ねぎ、油やパン粉などがなければ作れない。それら材料にもそれぞれ値段が付いている。常識的に考えて、その材料費以下の値段で料理を客に提供することは不可能だ。

 物の値段には限界がある。

 幾ら消費者が安いものを求めていたとしても、限界を超えた低価格で商品を提供することは不可能なのだ。

 Aという店の限界価格は1,000円だとすると、Bという店の限界価格は500円とする。

 今まで1,000円まで出せた客が収入が減った結果、500円しか出せなくなった場合は、Bという店に行くしかない。

 AとBという店は、ファミレスとファストフードの店に当てはめることが出来るかもしれない。

 ファミレスは1,000円の限界値段で作られ、運営されてきたものだから、ファストフード並みの値段で商品を提供することは不可能なのである。

 今までファミレスを使っていた人たちはファストフードの店に落ち、ファストフードを使っていた人は外食さえままならなくなった。

 現状を表すとしたら、これだろう。

 それを「消費者のニーズに応えることが出来なかった」とは・・・。

 消費が落ちるところまで落ちたとき、何業も不可になる。

 お金を使いたくない人が増えているのだから、消費者のニーズそのものがなくなってきているのだ。

 だから、今回のことは「消費者のニーズに応えることが出来なかった」と総括するのではなく、寧ろ、日本国内における不景気と商業の衰退を憂うべきなのだと思う。

 外食する余裕がない国民が増えたとき、外食産業は滅びる。

 大量閉店が決まったデニーズは、かつては女性に人気があったデートスポットのひとつでもあった。デザートが豊富で、ファミレスの中ではオシャレなイメージが強かった。

 そのデニーズが閉店に追い込まれるというのは、時代をよく反映している。

 日本の若者が貧乏に苦しみ、恋愛さえも高嶺の花になった、と言えるのかもしれない。

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大阪くいだおれ閉店と外食産業の不振

 先日、くいだおれ人形で有名な大阪くいだおれが閉店することを発表したという。

 そして、今日、デニーズの不採算店大量閉店のニュースが流れた。

 長く続く不景気のせいで、外食産業はどこも不振のようだ。

 人材派遣の規制緩和の政策によって、日本国内で長く続いた終身雇用制度や、正社員制度は崩壊し、外食産業の中で会社単位の需要は著しく減った。

 会社単位が生きていた時代は、忘年会、新年会、慰安会、打ち上げ、送別会、歓迎会、様々なイベントが会社単位で行われ、そのたびに外食産業は潤ったものだった。

 それだけでなく、この頃は冠婚葬祭の簡略化、縮小化が止まらない。

 結婚をしない人が増えているし、結婚をしても結婚式を挙げなかったり、披露宴を開かなかったりしても不自然ではなくなってきている。

 お見合いや、結納、顔合わせ、などなど、結婚に絡む行事で料亭やホテルが使われることも減った。

 人生最後のイベント、お葬式にも同様のことが言える。

 うちの近所は昔ながらのお葬式をする方だが、ここ十数年の間に、お寺の外で会食する習慣はなくなり、お寺の施設の中に仕出し屋を入れて会食する形式に変わった。

 その方が安く、簡単に済ませられるからである。

 一周忌、三周忌、七周忌などの法事に関しては、一体どれだけの家がやっているのか?地元に住んでいる人以外は、人を呼んで会食するなどの形式は取らない家も多いのではないだろうか?

 冠婚葬祭、法事や葬式関連の会食や仕事関連の会食などで成り立っていた中規模の寿司屋や料亭、食事処は少なくないはずだ。大阪くいだおれもそれに属していたのではないだろうか?

 普段の生活の中でも、外食をする機会は減る一方だと思う。

 外食は家で食事をするよりも割高だからだ。家族がいれば、尚更だ。

 ガソリン代の25円に必死になっている庶民にとって、外食はもはや高嶺の花となったということだろう。

 今年も夏休みには信州へ出かける予定だが、去年見つけた美味しい食べ物屋さんが、夏までには閉店するという話を聞いた。

 悲しいけれど、そういうことも起こりうると、去年の夏休みの風景を見て思った。前の年にあったお店や駐車場がなくなる、そういう時代なのだ。

 毎日、台所で家族の食事を作り、ましてや共働きで働いている女性にとって、外食する贅沢も許されない生活は辛いだろうな・・・と思う。

 しかし、だからと言って、お手ごろ価格のファミレスで外食をすることは危険だ。

 それらの低価格は、安い中国製野菜などを使わなかったら実現できない価格だからだ。

 誤った食生活から、取り返しのつかない病気になった人を何人も知っている。

 疲れるから、簡単なお惣菜を買う、加工食品を食べる、パスタやうどん類を多用する。味の濃いものを食べる・・・。労働が厳しくなればなるほど、ストレスが強くなればなるほど、皮肉にも、人は体に悪いものを口にしてしまうものなのである。

 疲れれば疲れるほど、糖分過多になる。脳が糖分を求めるのである。

 近年の糖尿病患者が増加していること、サラリーマンのメタボリと、無関係とは思えない。

 悪循環だなぁ、と思う。

 不景気の悪影響は、本当に日本人の隅々にまで行き渡ってきている。

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不況の中の若者たち

 先日、NHKにっぽんの現場 という番組で、今、定時制高校の生徒が急増していることの背景について紹介されていた。

 そこには、日本の良い時代を生き、或いは知っている者が見たら、誰もが心を痛めるような現実があった。

 この長い出口のない不況の中、昨今の傾向として、授業費がより安い公立高校への人気が高まり、それによって受験の際の競争率が高くなっているらしい。

 受験時、公立高校を落ちてしまった場合、学費の高い私学へ行くという選択肢はない。

 家庭の経済事情により、それは無理なのだ。

 それでも高校へ行きたい生徒たちは、定時制の高校を選ぶのである。

 それにより、定時制高校の生徒数が急増しているというのだ。

 番組では何人かの生徒たちが追跡されていたが、父親のリストラや会社倒産により収入が激減し、それによって子供たちの人生計画は大きく狂わされ、進学の道を絶たれてしまった・・・という生徒が何人もいた。

 昼間アルバイトで働き、お給料の一部を家に入れ、更にお金を貯めて将来の学費に当てる。

 或いは、高校を卒業後、安定した企業に就職して家計を助ける。

 どの子たちも皆大人びていて、考え方がとてもしっかりしていたのには驚かされた。

 目的と現実の両方を見据えて、そのためのお金のやりくりまで引き受けているのだ・・・。

 私が高校生だった時代、親も先生も大人たちはみんな口をそろえて、

 「バイトはするな。勉強だけに専念しろ」と言ったものであったが。

 一家の大黒柱の人生の大挫折が家族に与えた影響は如何ばかりのものだろうか。

 それは、苦学生になるという現実だけでなく、子供たちに与えた精神的な影響は計り知れないものだろう。

 若くして辛酸を舐めた子供たちに、世の中はどんな風に映るだろう。

 挫折を経験した家族の中に何を見たのだろう?

 定時制に通う生徒たちの瞳は、どこか暗く、心は閉ざされているように見えた。

 痛々しいことだ。

 未来の日本を担う若者たちが、このような悲惨な状況に置かれ、その数が増えているのであれば、それで良いのだろうか?

 こんな日本であっても良いのだろうか?

 貧困スパイラルは、今の高校生世代ですでに回り始めている。

 そして、20代の若者たちは、貯金が一番の関心事で、酒も飲まず、車も買わず・・・だそうだ。J-castニュース

 それを可哀想だと私も思う。

 気の毒だと思う。

 その意味することは、人生の楽しみや遊びを知らずに一生を質素に、生きるためにだけ生き、病に倒れ伏して死ぬのを待つだけの人生を生きるということだからだ。

 食べ物もそうだ。

 食べるのは楽しみではなく、生きていくために食べるだけ。

 それを可哀想だと言われれば、若者たちは反発するだろう。

 今のご時勢、お金を使うことは愚かなことで、先々に備えて貯金する自分たちは賢いとさえ言う。

 だが、お金を使うことを否定しても惨めになるだけだ。

 新興国のインドや中国を見てみればわかる。

 新富裕層、新中間階級富裕層のすさまじい買いっぷりがテレビでも紹介されることがある。

 どの人も満面の笑みを浮かべている。

 お金を使うことが至福の喜びであるかのように。

 たぶん、お金を使うことは食欲や性欲などのような、人間が本能的に持っている欲望のひとつなのではないだろうか。

 欲しがらないのは、手に入らないことがわかっているからだ。

 20代の若者たちが、お金を使うことを否定するほか、異性との付き合いにも否定的なのが興味深い。

 部屋にパソコンも持てず、車の免許も取れず、車も持てず、彼女も作らず、休日は何もせず部屋でじっと身を潜めて一日を過ごす。

 海外ブランドのブティックが立ち並ぶ華やかな街並みを歩いていても、息を殺してそうっと歩いているのだろう。

 お金を使わないことだけを考えて。

 何故ならば、収入が不安定であったり、収入が少ないという厳しい現実があるからだ。

 そして、何かあっても親の援助が全く期待できないのだろう。

 自動車やバイクが売れないのは道理だ。

 私が知る二十年くらい前の日本では、子供が運転免許を取るといえば親がお金を出してくれたり、援助してくれたものだ。

 そして、自動車やバイクなどの大きな買い物をするときは、お金を出してくれる家も多かった。

 成人式には、娘のために晴れ着を、息子のためには背広を用意してくれたものだ。

 昔も若者はお金がなかった。

 だが、昔の親たちには余裕があったのだ。

 今となっては、この差は計り知れなく大きい。

 今の20代の若者たちは、少ない収入から貯金をし、人生を楽しむことをすべて否定して、贅沢を憎み、個人主義で、人としての優しさも持てない。

 自分たちの苦しい現実を訴えることなく、反対に、格好付けて理屈をつけて自分たちを正当化し、自分と反する意見や考え方は悪と決め付ける。

 楽しい生活や人間らしい生活がしたいのなら、何故、世間や社会に向けて自らの力で発信したり、訴え掛けないのだろう?

 今はインターネットがあるのだから、ブログでも掲示板でも何でも、言いたいことがあれば訴えれば良いのに。

 家にパソコンがなくても、ネットカフェだってあるだろう。

 苦しい境遇に慣らされるだけなら、家畜と変わらない。

 ネット上でも、もがき苦しみ、必死に自分たちの窮状を訴えているのは、中高年が多いように思う。

 どうして若者たちは声を揚げないのか、不思議だ。

 すかしても格好つけても良いことなど一つもない。

 人間が持つ本能や喜びを封印し、長い人生を死ぬまで生きていかなければならない若者たちを、私は哀れだと思う。

 この悲しい現実は彼らが作り出したものではなく、一方的に与えられたものだからだ。

 バブル時の政府とお役人の誤った判断は、バブル後の十数年で国を疲弊させ、今、急速に国を滅ぼしかけている。

 それと呼応するかのように、ここ10年、大量の自殺者を出し続けている。

 こんな日本の現状は間違っている。

 こんなのは本当の日本じゃない。

 国民の大部分が格差を感じることなく、楽しく幸せに生きてこれたからこそ、日本は繁栄し、日本人は世界に誇れる「知的で誠実、人柄の良い民族」であれたのだと思う。

 崩れ行く日本、崩れ行く日本人を私は憂うる。

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人生におけるリスクと先行き不透明感

 今年に入ってからの売り上げの減少は想像以上である。

 コスト高と売り上げの減少の相乗効果というか、ダメージは大きい。

 このままの状態が続けば、我が家も生き方を多少変えなければいけなくなるだろう。

 自営の仕事以外にアルバイトをするとか。

 ここ十年、少しずつ、経営は苦しくなってきたと思うが、本当に「もう駄目かもしらんね」という状態になったのは、ほんの数ヶ月の間での出来事だ。

 目を見張るようなスピードで、世の中は変わったとしか言いようがない。

 それは私たちだけではなく、多くの日本人が直面している現実だと思う。

 うちのような自営業者は、始めたときから、ある日突然注文が来なくなるかもしれない、というリスクは常に抱えている。

 しかし、今は自営業者でなくとも、人生にリスクを抱えて生きていかなければならない時代となってしまった。

 一般の人間にとって、人生の大きな出来事と言えば、結婚や子供、家の購入などがあるだろう。

 最近は結婚にメリットがないと言う男女が増えたが、結婚は、場合によっては、一人でいるよりもリスクマネージメントとなる場合がある。

 2人で働いている場合などがそれに当たる。

 どちらか一方が病気になったときに、もう一人に収入があれば助けになる。

 問題は子供と家である。

 子供は成人するまでに20年、家は完済するまでに30年くらい掛かる。

 その間に、何が起こるかわからない。

 死ぬのは最悪のリスクではない。生命保険があるだろうし、家のローンを組むときに団体生命保険に加入しているはずだから、家は残る。

 死ぬことよりも恐ろしいのは、収入が減ること、なくなることだ。

 現在、30~50歳くらいで、住宅ローンを組んでいたり、子供を育てている人たちにとって、今起きている経済危機や円高は脅威であるはずだ。

 その人たちがリスクを引き受けたときと、今とでは、まるで条件が違うからだ。

 完済までの道のりが、長いトンネルのように見えるだろう。

 最近、ネットで「早く死にたい」という言葉をよく目にする。

 人生は長くて辛いもの、長生きしても良いことがないと、人々が感じているということだ。

 何歳くらいの人たちなのだろうか・・・?と思うことがある。

 私自身、年金暮らしの高齢の叔母などを見ると、「人生のあがりが近い人はいいなぁ」なんて思うことが正直ある。

 少子化対策なんて言葉も今は昔の観がある。

 日本と言う国が必要としているのは、将来の納税者候補か、生活保護受給者候補か計りかねる子供などという不確かなものではなく、今の日本を豊かにしてくれる「金」だろう。

 普通に生活していれば出来るはずの子供のために、特別な金を掛けたくないのが本音だと思う。

 現実的に、今の状況で子供だけが増えても、貧乏人の子沢山家庭が増えるだけだ。

 現況、高度成長期を生き、バブルを謳歌し、今でも余力のある高齢親世代が子供世代に援助している家が少なくない。

 親世代よりも子供世代が貧乏なのだから、当然の図式だ。

 このままの状態で孫世代が出てきたら、一体どうなるのだろう。

 祖父母に孫の面倒を見る分の余力があれば良いのであるが、孫たちが派遣社員だったり、アルバイト社員であれば、ジリ貧だ。

 高度成長、バブルを経て貯えてきた親の余力(年金を含む)を、今の中年世代が食いつぶしてしまった場合、その下の世代には引き継がれない。

 貧乏人の子供は更に貧乏になり、子供が成長しても親を援助することもままならない。

 一家総倒れの可能性もある。

 生活保護受給者の子供たちは、将来の生活保護受給者候補と言えないだろうか?

 ここ数年、うちの周りでも沢山の大小さまざまの住宅分譲地やマンションが出来、家は次々に売れていった。

 今、その家を買った人たちは、どういう気持ちでいるのだろう?

 昼間はひっそりとしていて誰も居ないまだ新しい住宅地が、本当に数え切れないほどある。

 

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病院・薬局の待合室から消えた人々

 今日、用事があって近所の駅ビルへ出掛け、驚くべき光景に出会った。

 そこのビルの上階には幾つかのクリニックがあり、一階には調剤薬局があるのだが、その待合室に人っ子一人いなかったからである。

 昨年の秋以降、目に見えて人が減っているなとは思っていたが、それがいくらなんでもゼロとは・・・。

 いつも同じ時間帯に出かける場所なので、その変化は間違いないと言って良いだろう。

 それはこの調剤薬局に限ったことではなく、同じような現状はうちの愛犬掛かりつけの獣医さんでもあった。

 いつもは駐車場に車が止められないほどであったのに、去年の年末近くになって行ってみたら、駐車場はガラガラ、待合室には誰も居なかった・・・・・・。

 そして、みんな暇そうにしていた。

 それは今年に入っても大して変わらない。

 うちは、もう10年近く定期的に獣医さんへ行っているのだが、こんなことは今までにはなかったことである。

 更に、その現象は、掛かりつけの歯科医院でも起こっていた。

 とても感じが良く、技術的にも大満足な歯医者さんである。

 いつも待合室には人がいて、電話が鳴っていた。

 ところが、今年に入ってから行ってみると、待合室には誰も居なかったのである。

 この現象は、大体、2007年の秋以降に起きているように思う。

 サブプライムローンの問題が表面化し、ガソリン代が高騰し始めた頃だろうか。

 お正月休み前の銀行のATMでも、長蛇の列は見られなかった。

 高速道路も空いていた。

 今までも日本経済には色々と不景気もあったが、今回は半端じゃないような気がする。

 バブル以降、これまで執られてきたきた政府の政策が悪く、結果、国全体に余裕がなくなり、つまり、外的なリスクを飲み込むだけの余力や体力が今の日本にはないため、ここまでダイレクトに国民の生活に響く。

 サブプライムローン問題のことにしても、円高にしても、原油高にしても、他の国では動いているのに、日本政府は動けない状態だ。

 先日、竹中氏が「円高問題で政府はすでに動いているんじゃないかなぁ。動いていると思いますよ」と苦笑いしていた。

 このことからも、今の政府は身動き取れない状況にあると考えられる。

 竹中氏は動かなければまずいと思っているし、すでに動きが出ていなければおかしいと思っているに違いない。

 しかし、政府はなんら動いている気配はない。

 サブプライムローン問題では、世界の主だった国がアクションを起こしているのに、日本は何もせずに無関心なようにすら見える。

 この問題は世界的な経済危機であるから、それを乗り切るために日本も国として関わりを持っていかないと、後々の国間の経済の位置関係に影響を及ぼすだろう。

 要するに、点数を稼ぐチャンスなのだ。

 アメリカやヨーロッパが困っているときに、自腹を切ってでも力を貸す。

 それがいずれ回り回って日本の利益になる・・・はずなのであるが、現実には何もしていない。

 ある大臣は、「あれはアメリカのことですから。アメリカが何とかするでしょう」などと言っていたように思う。

 確かにアメリカは何とかするのであるが、それでは木を見て森を見ず、になりかねない。

 アメリカが自力で何とか出来るわけでななく、方々の国や団体からすでにバックアップを貰い、それで立ち直そうとしているのだから。

 このまま何もしなければ、間違いなく、日本の位置は変わるはずだ。

 世界での日本の位置づけが変わると、かなりの影響が出ると思われる。

 日本という国の価値が下がり、このままいけばジリ貧になるだろう。

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救急患者の受け入れ拒否の本当の理由は?

 この頃、救急救命の危機が頻繁にテレビで特集されているが、本当の原因は一体どこにあるんだろう。 

 ベッドが空いていないからとか、受け入れ体制が整っていないからとか、病院の対応が悪い点が殊更に強調され、焦点がぼやかされている印象を受ける。

 病院側が患者の受け入れを拒否するからには、拒否するなりの理由があるのではないだろうか?

 私がブログで何度も取り上げているように、今、国民健康保険料の不払い/滞納がかなりの件数に上っていると言われている。

 このことが何か関係しているような気がしてならない。

 保険料不払いの人たちが通常の受付を通して病院へ治療を受けに来ることは、まずない。

 自己負担で払う医療費は、とんでもなく高いからだ。

 だが、死にそうなときとか、切羽詰ったとき、それらの人でも救急車を呼んでしまうことは想像に難くない。

 救急車ならタダで自分たちを病院へ搬送してくれるはずだからだ。

 それらの人を選別するしくみは日本にはない。

 病院へ行けば、救急医たちが最新の機材、薬品を使って、全力を尽くして助けてくれるだろう。

 そのどの医療行為にもお金が掛かっているのであるが。

 死にそうな患者を目の前にして、医療費の支払いの心配をする医療関係者は誰もいないだろう。

 その患者が普通に健康保険料を払い、自己負担分の医療費などの支払い能力がある人であれば問題は起きない。

 しかし、健康保険料を払っていない人たちを受け入れ、治療し、入院させた後、その病院はとんでもない目に遭わされるのではないだろうか?

 医療費の不払いだ。

 月々の保険料を払えないくらいの人たちに、高額な自己負担の医療費が払えるとは思わない。

 全額患者負担の医療費を不払いされた場合、病院の被害は大きい。

 健康保険料を払っている者なら、高額医療費の限度額がそれぞれ定められているから、それ以上の医療費は免除される。

 それでも払うのが困難な場合もあるだろうが、病院側には、掛かった医療費の大部分は健康保険から支払われるしくみだ。

 保険料を払っていない患者の場合は、当然、すべての医療報酬は病院へは支払われない。

 医療費の不払いが増えているというが、最も病院が恐れるケースがこれだろう。

 普通の病院には、有効な不払い医療費の回収システムなどない。

 このような事例が増えれば、病院経営は危機に立たされる。

 救急車で運ばれる患者の何割が健康保険の滞納者であったり、治療の支払い能力のない患者なのかは知らないが、一般の受付と違って、窓口で選別は出来ない。

 よって、病院にとって、救急患者の受け入れは経営的にとてもリスキーだと言わざるを得ない。

 ハイリスクで下手をすればノーリターンどころか、大きな負債を背負ってしまう。

 できれば避けたいと思うのが当たり前ではないだろうか。

 命を救うことが医療の真髄だとか、命よりも大切なものはないとか、それらは正しい言葉だろう。

 しかしながら、だからと言って、そのために、病院や医療関係者が身銭を切ったり、何らかの犠牲を払わなければならないというのは間違っていると思う。

 医療費の不払い、救急患者の受け入れ拒否、これらはすべて、国民健康保険料の不払い、滞納につながっている。

 その根幹にあるのは、日本に拡がり続ける貧困である。

 医療関係者、病院は、これ以上の診療報酬の削減や、イジメのような医療政策を取られることを恐れてか、多くを語ろうとしない。

 だが、現場の真実を国民に知らせなければ、ただ、病院だけが悪者にされてしまう。

 それが今のメディアの報道姿勢だ。

 被害者はあくまでも患者という視点でしか、物事は語られていない。

 受け入れを拒否され続け、救急車の中で命を落とした人々も気の毒な被害者であるが、受け入れを拒否した病院が加害者であると言い切れるものか。

 医療費を踏み倒される病院も又、別の次元の被害者なのである。

 自営業をやっている人ならわかると思うが、売ったものの代金を踏み倒されたり、売った先が倒産して代金を回収できなかったりすれば、自分の会社が倒産の危機に瀕するのである。

 倒産によって命を落とした人は、決して少なくはない。それほど、経営の破綻は、深刻なことなのである。

 国は現実を直視すべきである。

 行政の手詰まり感をぼやかし、責任を医療現場に転嫁する方向で世論を誘導することに尽力するのではなく、今の日本を作ってきた自分たちの誤りを正すべきである。

 診療報酬にしても、国の財政状況の悪化によって縮小されている現状だ。

 こんな状況で、病院が上手く機能するわけがない。

 現場の医者たちは最先端の経験や治療をしたがっていると思う。

 お金がないから何も出来ない状況なのではないか。

 その最先端の医療を受けられる医療機関も減る一方だろう。

 国はいろんな問題を抱え、それらは複雑に絡み合い、八方塞に見える。

 いつの時点で立ち止まり、やり直す道を選ぶ勝負に出るのだろう?

 全く先が見えない。

 毎日、政治家は国会で遊んでいるし・・・。次の選挙の心配よりも、今の日本の国民の生活の心配をすべきだ。

 国民の生活環境は、すでに崩壊し始めているのだから。

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専業主婦の価値

 景気が落ちて、この方、専業主婦に対する評価は下がる一方だ。

 夫婦共働きでやっと暮らしが成り立つ家庭が増えたため、自ら収入を得ることをせず、夫の収入だけで遣り繰りする専業主婦はどこか贅沢な存在に見えるのかもしれない。

 外に出て苦しい思いをすることもなく、家の中で暢気に家事をして一日を過ごす有閑マダム、といった評価か。

 専業主婦の価値を認めない人たちというのは、矢張り、専業主婦のいない家で育った人たちなのだろうか?

 私の母は専業主婦で、家事や子育てを一手に引き受けていた。

 昔の日本に多くいた、普通の専業主婦だ。

 手まめで遣り繰りが上手だったので、同じ社宅内に住む家の中でも、我が家は豊かに見えたことだろう。

 私は母の手製の服を着せられたが、どれも可愛くて、褒められたり羨ましがられたものだ。

 父は仕事に専念し、母は家事に専念するという家庭内分業は、非常に効率が良いのだと思う。

 現在の共働き家庭の惨状を見る・聞くにつけ、家の中のことをきっちりする人が一家に一人いるかいないかの差は大きいことがわかる。

 まず、食生活が貧しくなる。

 時間に追われている家庭では、食事を作る時間を十分に取ることは物理的に不可能だからだ。

 簡単に出来る加工食品、インスタント食品、冷凍食品に頼らざるを得なくなる。

 家計の遣り繰りに無駄が出る。

 家庭内では、主婦の労働はタダ働きだ。

 それを賃金に換算するという馬鹿馬鹿しい実験をした人たちが昔いたが、タダ働きだから専業主婦には存在意義があるということを忘れている。

 主婦の手間は家計に響かない。

 家計を遣り繰りするために、時間的余裕のある主婦は、自分の手間をいとわないことで色んな工夫をすることが出来る。

 子供の服を手作りすることは、安い外国製の衣料品が溢れている昨今、厳密には節約にはならないが、コストに見合うかそれ以上の質の良さを得られるという点が、より少ない出費で豊かな生活を実践するというコンセプトには合うだろう。

 手間は掛けて、お金は掛けない。

 それが専業主婦のメリットだと言える。

 そして、手間を掛ける事は、愛情を掛ける事でもあるのだ。

 私なども、母が手作りしてくれたお気に入りの洋服のことは、幼稚園に入る前の服のことでもよく覚えている。

 共働きでは掃除も行き届かない。

 私自身は掃除は余りマメにやる方ではないが、汚い部屋には抵抗がある。

 テレビなどで時々見かける部屋と比べても、そんなには酷くないと思っている。

 それは私の原体験が強く影響していることだと思う。

 私が小学校から帰ったとき、母は留守のことも多かったのだが、家の中はいつも綺麗に掃除機をかけられた状態だった。

 だから、今も私は、掃除機をかけて綺麗になった部屋を見ると気持ちが良くなる。

 子供というものは、自分が育った家の影響を強く受けるものなのである・・・。

 家の中で、家事に専念して、家族の中心に位置し、家族の快適な生活の手助けをしてくれる専業主婦がいることは、とてもありがたいことである。

 専業主婦は、ニートなどでは決してない。

 専業主婦のいない家庭で育ったのであれば、専業主婦の価値というものがわからなくても致し方のないことなのかもしれないが。

 専業主婦から勝手なイメージを想起して、楽に暮らしている、お金を消費するだけの扶養家族なんて意地悪な見方をするのは良くないことだ。

 世の中はお金だけではない。

 お金で買える豊かさもあれば、お金で買えない豊かさもあるのだ。

 専業主婦が生活の豊かさの象徴であるとすれば、今の日本から消えつつあるのも当然といえば当然のことだ。

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初詣の人出と景気

 バブルの頃、うちでは毎年大晦日に明治神宮へ初詣に出掛けるのが恒例行事だったことがある。

 90年代前半、バブルが崩壊したと言っても、巷の景気はまだまだ良かったし、うちの車も新車の外車だった。

 明治神宮の周りは沢山の人と、お祭りの夜店のような屋台の食べ物屋さんが代々木公園、表参道の歩道、代々木体育館の方までひしめいていた。

 物凄く熱気と活気があった。

 午前零時とともに、ぎっしり並んだ善男善女がいっせいに動き出すと、

 透明のアクリル板のような顔面プロテクターを付けた警察官が、人ごみに押されながら、

 「中央突破はやめてくださーい!」

 なんて拡声器で叫ぶのだが、ああいうのは一度は見ておく価値があるかもしれない。

 それから暫くして、大晦日の初詣の習慣はやめた。

 若い人たちがカウントダウンをしたりするのも違和感があったし、どこの誰かもわからないような、色んな気持ちを持った、色んな人たちが一箇所に集る時、所に居合わせることにいい気持ちがしなくなったということもある。

 それからは、日をずらして初詣に行っている。

 大体松の内までに初詣を済ますようにしているのだが、毎年同じ時期に同じ場所に出かけると、色んな変化に遭遇することになる。

 まず、屋台が激減した。

 神社の対応も年々変わって行った。

 最初の頃は、毎年初祈願の案内が送られてきたものであるが、やがて来なくなった。

 景気が少しずつ後退するのと同じように、明治神宮に来る人も減っていたように思う。

 それが、去年の初詣は違っていた。

 私たちが初祈願のために本殿に向けて拝むとき、下の方では一般の参拝者がお賽銭箱の前に並んでいたが、ビックリするくらいの人だった。

 「日本の景気は上向いてきているのかもしれない!」

 そう思った。

 そして、確かに、去年の夏辺りまでは、そこそこ景気は持ち直しつつあるかのように見えた。

 それが、今年の初詣では、参拝者の数は激減。

 去年と比べると、ビックリするほど人が少なかった・・・。

 初祈願のほうも、運営の仕方は十把一からげというか、効率重視のおざなりなものという印象を受けた。

 そういえば、駐車場も空いていた。

 一番近い駐車場に止められたのだ。ここ数年で初めてのことだ。

 去年は行った事もないような池のある方の特設駐車場の、しかも道路の脇に車を止めさせられたのに。

 観光バスも減っていた。

 毎年、各有名神社は、お正月三が日の初詣の人出を発表するものであるが、前からその数字には疑問を感じていた。

 平成20年の明治神宮の人出は317万人。平成19年と比べて6万人増だそうだ。

 ちょっと怪しいなぁ、という感じがする。

 昔、屋台で賑わった代々木公園の辺りに、いつの頃からか、ブルーのシートで出来たテント村のような出来た。

 天気のいいときなど、ホームレスの人たちがフェンスに色んなものを干している。

 いつになったらそれがなくなるのかなぁ、と思う。

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健康格差

 国民健康保険の不払い件数が増えているということは、医者に掛からない人が増えたということである。

 そうすると、必然的に病院の収入は減り、病院経営は捗々しくなくなることは想像に難くない。

 すでに病院では人減らしが始まっているのではないだろうか?

 人口の少ない地域では病院経営は成り立たず、無医村が増えて深刻な問題となるだろう。

 貧困は食生活を貧しいものにする。

 生活が苦しい山村では目が悪い高齢者、腰の曲がった高齢者が多いのは、普段の食事の貧しさを想像させる。

 それが都会にも拡がって来ている。

 更に、普段、医者に掛からないライフスタイルは、地域による、収入による健康格差を生み続けるだろう。

 かつて、高収入の医者のなり手が増えすぎ、医者余り現象が出るという予測があったように記憶しているが、今のようなことが起きることを誰が予想しただろう?

 医者のように責任が重く、かつ重労働で、しかも高収入が約束されなくなったら、医者のなり手は激減するに違いない。

 が、現在、医者であり、リタイヤ年齢には数十年ある人たちは、想定外の時代の変化にどう対応すれば良いのだろう???

 介護保険制度が発足したときに、そちらの方面に移動された方もいるだろうし。

 戦後、日本の優秀な健康保険制度の恩恵を受け、安く医療を受けることが出来、日本人の健康は著しく向上してきた。

 その先人たちの尊い努力の積み重ねが、この十数年で、あっけなく崩壊していくことに驚きを禁じえない。

 こんなにも短い期間で・・・・・・・!!!

 4月には大学病院へ行く用事もあることだし、じっくりと変化を見てこようと思っている。

 そこではすでに初診料が上がったり、紹介状なしでは診療を受け付けなかったり、地元に掛かりつけ医を持つことを推奨するなどの地域ぐるみの動きがあった。

 出産も受け付けないそうである。

 実質、患者が病院を選べない状態である。

 さて、患者さんの数は増えているのか、減っているのか・・・?

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低収入の歯医者さんと健康保険制度の崩壊

 今年1月23日の歯医者の未来は?にも書いたが、本当の本当に、今、歯医者さんが大変らしい。

 テレビのニュース特集で言うには、歯医者さんの平均収入は500万円だとか。

 一番上に紹介されていた医師の1,000万円にも驚かされたが・・・。(少なくて)

 親の代から開業している女性の歯科医の場合、年収は400万円だと語っていた。

 ニュースでは、歯科医の数が多すぎるから、という切り口で紹介されていたように思う。

 コンビニの数よりも多いとか。

 果たしてそれだけだろうか?

 私の考えは違う。

 貧しさゆえに、歯医者へ満足に通うことが出来ない日本人が増えたのではないだろうか。

 まず、国民健康保険料が払えない。

 体が健康な人にとって、国民健康保険は生命保険のようなものではないだろうか。

 病院へ掛からないなら、払うのが馬鹿馬鹿しい=損するような気がするという点において。

 すべてに余裕があった時代、健康保険はありがたいもので、保険料の負担感も軽かったはずだ。

 それが今は、国民健康保険料が家計を逼迫し、「病院へ行きさえしなければ、払わなくとも大丈夫だろう」くらいまで、健康保険に対する意識が(モラルが)低下しているように思う。

 終身雇用制度が崩壊し、それまで会社任せだった年金や健康保険の支払いを、個人ですべて管理するようなったことが大きいだろう。

 正社員時代は、会社が社員の福利厚生面までしっかり面倒を見てくれた。

 正社員を一人雇うには、払う給料の二倍分の経費が会社に掛かるとは、昔、よく言われた言葉である。

 国際競争力を上げるという国策の元に?、正社員を減らし、パートやアルバイト、派遣社員を増やしたお陰で会社の負担は軽くなった。

 会社は増益を続け、反対に、楽に生活できる人が減った。

 何から何まで自分で面倒を見なければならない、アルバイト、派遣社員にとって、年金や国民健康保険料の負担感は大きい。

 そして、国民健康保険料を払えないということは、その人に扶養家族があった場合、一家全員がその影響を受け、医療の恩恵を受けられないことになる。

 高齢者の場合、年々健康保険の自己負担額が増え、そのことによって、医者に掛かることを控えるようになったと考えられる。

 十年以上前は、病院の待合室はさながら老人の談話室のようで、溢れんばかりの状態だった。

 今は歯医者の未来が暗い話で盛り上がっているが、次に来るのは医師だろう。

 一度も検診に行かない妊婦が増えているというし・・・。

 国民健康保険料の不払いが増え、健康保険制度が崩壊することによって、やがて、歯科医も医師も、病院経営も、すべて成り立たなくなって行くだろう。

 病院は生き残りの手立てとして、利益率の良い患者を求め、患者を選別し、治療法を制限するだろう。

 救急車の受け入れ拒否も、何かその辺を暗示しているような気がしてならない。 

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車を持たない人生

 日本は名だたる自動車メーカーを幾つも抱えて繁栄してきた国であるのだが、最近、車が売れていないという。

 車は高い買い物だ。

 一般の人にとって、家の次に高い買い物だろう。

 その車が売れていないのだという。

 何故か?

 自動車評論家やマスコミの解説者は、何故か「若者の車離れが進んでいる。それは若者が欲しいと思う車がないからだ」という説を唱える。

 しかし、それは本当だろうか?

 私はそうは思っていない。

 首都高や甲州街道、圏央道、東京近郊の道を走ると、車の数の激減ぶりに驚かされる。

 車が売れていないどころか、今まで持っていた車を手放した人がかなりの数に上るのではないだろうか。

 ご存知のように車を維持するにはお金が掛かる。

 そのお金を捻出できなくなった人がそれだけ出てきたのだ。

 車は、衣食住の中に入っていないから、最初に切り捨てられる物のひとつともいえるだろう。

 車は「足」とか「下駄」とか言われるように、人の足になって、その人が行きたいところへ運んでくれる便利なツールだ。

 雨の日も寒い日も暑い日も、乗る人を快適な状態で運んでくれる。

 好きな音楽を聴いたり、友達や家族と楽しく語り合ったりも出来る。

 重い荷物を持ってバス停で待ったり、駅の構内を歩いたり、階段を上り下りする必要もない。

 その便利な生活を捨てるということ。

 それは、まるで、節電節約のためにウォッシュレットを捨て、便座の冷たさに耐える生活に似ている。

 車もウォッシュレットも、元は、快適さや便利さ、その先にある楽しい生活のために作られたものではなかったろうか?

 それを今、捨てる。手に入れられない時代が来ているということは、考えれば考えるほど悲しいことである。

 お金がなくて車を買うことが出来ない若者が増えたことの原因の一端が、自動車メーカーなどのコスト削減にあるとしたら、皮肉なことである。

 まさに因果応報と言えるのではないか?

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さらば、私が愛した池袋西武食品館よ

 去年の終わり、十数年ぶりに池袋へ行く機会があった。

 手元にデパート券があったので、久しぶりに池袋西武の食品館で何か美味しいものを買って帰ろうと楽しみにしていた。

 時間と予算の関係で、デパート本館でのショッピングは望むべくもなかったが。

 まず、驚いたのは、日曜日だというのにガラガラの道路だ。

 首都高を降りて、池袋駅前のパーキングへ止めるまでの間、車が殆ど走っていない道路を見て驚いた。

 歩道や歩行者道路には人が溢れ返っていたのにもかかわらず・・・。

 そして、駅前は相変わらず人でごった返していた。

 手ぶらの人が多かったのだが。

 この日、一番の衝撃を私に与えたのは、池袋西武の食品館の激変ぶりである。

 薄汚れた地下道を歩き、懐かしい食品館へ近づくにつれ、私の中の違和感はどんどん大きくなり、やがてそれは大きな失望へと変わった。

 私の中にあった食品館は、キラキラと光り輝く夢のショッピングモールであったわけだが、その時、私の目に入ったのは、改装中の冴えない、どこにでもありそうな駅ビルの地下となんら変わらない景色だった。

 それでも、過去の記憶をたよりに、なんとか昔の姿を思い出そうと歩き回ったが、歩けば歩くほど焦燥感がつのるばかりで、同行の夫に申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

 その昔、私は池袋食品館で売られていた、ル・ノートルのクグロフがとても好きで、よく家族にお土産に買って帰ったものだった。

 その美味しい菓子パンを夫にも食べさせたいと、そのために出掛けたのであるけれど。

 辿り着いたパン売り場に、そんなゴージャスなパンは売ってはいなかった。

 どこにでもありそうな菓子パンが並んでいるばかりだ。

 家に帰って食べたけれど、味も平凡なものばかりだった。

 その時、私が受けた衝撃は計り知れないものだった。

 大げさに言えば、ごぉ~~~~っという風の音が耳の奥で鳴り響いたというか。

 この十数年の間に私たちが苦労して生きてきたように、池袋西武も急速に変化する時代の荒波に揉まれ、生き残るために変容してきたのかと思うと、なんともいえない気持ちになった。

 豪華で洒落たクグロフは、景気が下がるにつれ消費者から敬遠されるようになり、やがて売り場から消えたのだろう。

 食品館の片隅で、パートの女性が大きな声で苦労話をしていたのも、食品館の変貌振りを象徴するようだった。

 お客さんが来ないことがデフォになっているのだろう。

 これが私が愛した食品館の今の姿なのか。

 まるでかつての憧れの人が落ちぶれた姿を見せられたようで、心が酷く痛んだ。

 敗北感のようなものを抱き、混乱する頭であれこれ迷った末、1,500円くらいのお手軽チーズケーキと何種類かの洋風お総菜を買って帰ることとした。

 その後、しばらくの間、心の整理がつかなかった。

 今でも、私の中にある食品館は昔の姿を留めている。

 幸いなことに。

 おそらく、もう二度と足を踏み入れることはないだろう、池袋西武食品館。

 煌めく時代の思い出と共に、永遠にさようなら。

 私たちが池袋へ出向いた翌日、駅ビルから女性が飛び降り、偶然通りかかった男性を道連れにして亡くなるという事件があった・・・。

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おかずを一品減らすって・・・

 このところの値上げで、主婦らしき女性が街頭でテレビのインタビューに答えていた。

 曰く、

 「おかずを一品減らさないと・・・」

 それは、値上げに対する庶民の知恵ではあるだろうけど。

 聞いていて、切なくなった。

 いよいよ食べ物を減らす時代がやって来たのか。

 戦時中、食料が不足したとき、子供たちはいつも空腹で、満足に白いご飯を食べることが出来なかったという。

 空腹は辛い。

 今はそういう時代なのか。

 収入が増えないのに物価が上がるのだから、何かを減らさなければ暮らしは成り立たない。

 それはそうだろう。

 しかし・・・。

 私はいつもお腹いっぱいご飯を食べる方だから、食べ物を節約しなければならない暮らしは辛いなぁ・・・。

 うちだって、好きなものを好きなだけ買える経済状態じゃあない。

 ケーキ屋さんでケーキを買ったり、ベーカリーでパンを買ったり、気軽にミスドでドーナツを買うことは出来ない。

 今日も、95円ののど飴を買い物のついでに買おうと思って止めた。

 家に買い置きの飴があるからだ。

 うちは食べ物に結構お金が掛かっていると思う。

 健康に気をつけて、お腹いっぱいになるような食材って、そんなに安くあがらない。

 野菜がそうだし、お肉も部位によって値段がかなり違う。

 うちはロース肉を買っても、脂部分は切り取って使ったりするから、より割高感を感じる。

 ひき肉は買わない。

 以前、100gで88円くらいの豚挽き肉を見つけ、安いから毎日のように餃子など作って食べたら、それで夫はメタボになってしまった。

 メタボにならない食事は高くつく、ような気がする。

 かと言って、良質な食材を使って、量は少なめに、というのは嫌だ!!!

 満腹って大事だと思う。

 お腹がいっぱいになると、幸せな気持ちになる。

 飢えとか欲求不満は人間性を蝕むだろう。

 私は予言する。

 これから流行るもの、「家庭菜園」。

 庭がなくても、小さなプランターで野菜を栽培する人が増えるだろう。

 少しでも食費を浮かせるために。

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手作り餃子に思う

 毒入り餃子と呼ばれている、中国製「手作り餃子」はCO-OPの大ヒット商品で、40個入り298円という破格の値段で10万個売れたそうだ。

 泣きっ面に蜂という言葉は、貧乏人によく似合う。

 多くの庶民は、日々節約に励んで、それでやっと暮らしを成り立たせている。

 その人たちにとって、40個入り298円の冷凍餃子は魅力的だったろう。

 普段は中国製品を敬遠していても、CO-OPという信頼性の高いお店で扱っている商品ということで、「それならば」と買った人も多いはずだ。

 テレビのインタビューを見ると、「美味しかった」と言っていた人もいた。

 安くて美味しければ、それに越したことはないだろう。

 美味しさと健康は必ずしも両立はしないのだけれど。

 「高くて良いのは当たり前、安くて良くなければ」なんて、テレビショッピングの宣伝文句のようだけど、それは幻想だということを、今回の件は私たちに警告しているような気がする。

 「少しでも安く美味しいものを食卓に」と、40個入り298円の中国製手作り餃子を買った主婦らを裏切った関係者の罪は重い。

 安ければ売れるからと、コスト最優先で安全性を軽視する風潮は日本全体を覆いつくしているようだ。

 安全性を軽視するということは、人命を軽視していることに他ならない。

 あってはならないことだと思う。

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鶏肉

 この不景気で、鶏肉に注目が集っているらしい。

 うちでも去年までは鶏肉を定期的に買い、人間も愛犬も同じ鶏肉を食べていた。

 100gで数十円。

 そこのお店の鶏肉(胸肉)は、とりわけ安く、臭みもなくて美味しい良いお肉だと思っていた。

 が、愛犬の体調がおかしくなったのを機に、鶏肉は今のところ食卓に上がっていない。

 同じ銘柄ではあったけど、養鶏場の変更は過去にもあったし、もしかしたらお肉そのものの何かが変わったのではないかと推理している。

 それほど、愛犬の調子が悪くなったのだ。

 幸い、人間には影響は出なかったのだけれど。

 気持ち悪くなったのが正直なところだ。 

 それと、鶏肉ばかり食べていると、確かに元気がなくなる。

 気力がなくなる感じがした。

 食は本当に難しいと思う。

 メタボリック・シンドロームが流行っているからといって、低カロリーのあっさり目のものばかり食べていても、元気がなくなるという弊害が出てくる。

 何事もバランスが大事ということなのだろう。

 安い鶏肉のほかに、この頃はアメリカ産ポークをよく目にする。アメリカ産ポークしか売っていないスーパーさえある。

 国産のポークは割高だ。

 安くて良い物も売ってはいるが、スーパーには売っていないと思う。

 それを買おうとすれば、それなりのリサーチが必要だと思うし、そういうお店は車がなければ行けないような場所にあったりする。

 厳しい時代になったと思う。

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Depression--鬱と不況

 鬱は英語でdepressionと書く。

 それは不況という意味もある。

 うーん、と私は唸ってしまう。

 この長く続く日本国内の不況で、一体どれだけの人の生活が立ち行かなくなり、その過程で精神を病んでいったことだろう。

 お金がないとか、収入が少ないということの現実は、自分が経験しなければわからないことなのかもしれない。

 明日食べる食材を買うお金の心配をしなければならない生活。

 1円単位まで、支払いに気を配る日々。

 それが来る日も来る日も続いたとしたら、やがてあなたの顔から笑顔が消えるに違いない。 

 好きな花、好きな音楽、好きな香水も買えない暮らし。

 楽しみにお金を全く使えない暮らし。

 それは、希望のない暮らしと言えないだろうか。

 疲労や病気や不慮の出来事で生活の歯車が少し狂っただけで、坂道を転げ落ちるように堕ちていくようなギリギリの暮らし。

 そんな暮らしは存在するのだ。

 貧乏は人間を疲弊させる。精神的にも肉体的にも。

 貧乏でなくたって、将来への不安を感じた状態で生きていれば、心は擦り切れていくだろう。

 頑張っても頑張っても、先は見えず、その心は満たされることがないのだから。

 絶望に支配された人たちの心の叫びは、決して聞こえてくることはない。

 彼らの精神は、すでに死んでしまっているのだから。

 憂鬱、それは、この国の今を表すのに相応しい。

 それが絶望に変わる前に、誰かが何かをしなければならないはず。

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歯医者の未来は?

 ここのところの不景気で、不思議な現象が起きていると思う。

 歯の治療をしない人が増えているんじゃないのかな。

 歯医者へ行くとわかる。

 空いているから・・・。

 発言小町なんか見ても、歯槽膿漏、歯周病で入れ歯になっちゃいそう。どうしよう~。

 なんてトピがあるからね。

 普段から歯医者に行く習慣のない人が少なくないのだろう。

 だってね、

 人が歯を失うまでに一ヶ月とかの話のわけないじゃん。

 一体どのくらいの期間、歯を放置していたんだよ?と言いたい。

 今の時代、勤務中、「ちょっと歯の治療へ」なんて荒業を使える勤労者は少ないのかもしれない。

 何事もお金が最優先。

 第一、正社員じゃなければ、許されないことだよね。

 正社員だって、過労死体質の会社なら、病院へ行くと言っていい顔はされないだろう。

 それでも、大怪我をするとか、血を吐くとかすれば、会社を休んでもなんとか病院へ行くはずだ。

 でも、歯はそこまで大事に思われていないようだ。

 歯列矯正とか、美白とか、歯を気にする人は増えたのにね。

 歯に対する意識は、依然低いということもあるだろう。

 私の知るお年寄り(総入れ歯愛用)が言ったものだ。

 「60歳になれば、みんな入れ歯になって当たり前」と。

 ちなみに、うちの70代の親の歯は殆ど残っている。

 歯の恐ろしいところは、はじめは痛んでも、症状が悪化すればやがて腐り痛みがなくなることだ。

 痛くなくなった時点で、歯医者へ行くというオプションは消える。

 今後、歯医者さんも淘汰されていくだろう。

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灯油代、高!

 去年の終わりごろからガソリン代が上がって、灯油代も上がって。

 今はそうでもないけれど、暮れは寒さも手伝って、落ち込んだなぁ。

 夜、お風呂に入るのを止めて、昼間シャワーを浴びたこともあった。

 あまり良い生活じゃなかったね。

 それでなくとも、冬は欝になる人が増えるらしい。

 暮れで1リットル110円。

 明けて1リットル105円。

 年明けで灯油の値段が下がった理由は、日本人が我慢強さを発揮して買い控えた結果かな?

 灯油、高いよ!

 我が家は古い家だから、エアコンの暖房なんて効きません。足元が寒いんだから。

 家の中でも寒い夜などは、温度計が0度を指すこともある。

 廊下を歩くとき、息が白く凍るよ。

 そこで、対策を練ってみた。泣いてばかりじゃ、欝になるだけ。

 最悪、家の中でスキーウェアを着ても良いかと思ったよ。そこまでしなくとも大丈夫だったけど。 

 私の寒さ対策とは、

 ・タイツとコール天パンツの重ね履き。プラス、モコモコソックス。(これが暖かい)

 ・更に寒いときは、ルーズソックス風ロングの編みレッグウォーマーを重ね履き。

 ・そのとき、パンツの裾はソックスの中に折り込んで入れることを忘れずに。

 ・肌着はハイテク系を買うのがベストだけど、お金がないので、手持ちの綿肌着を重ね着する。(半そで+ノースリーブなど)

 ・肌着の上は綿タートルネック。リブ編みがベスト。

 ・タートルネックの上に着るものは、前開きのパーカがベストかな。パーカのフードは、廊下を歩くときに被れるから便利なのだ。

 ・今年は買えなかったけど、外側ニット、内張りフリースのパーカが欲しい。

 ・首周りにフリースのネックウォーマーがあると暖かいよ。手作りで簡単に出来ちゃう。(ミシンがあれば)

 ・そして、ベストがあるとかなり良い!!手編みのウールも暖かいし、フリースのベストでも暖かいよ。

 ・最後の仕上げは、割と薄地のフリースのジャケット。

 この格好であれば、0度の台所でも作業できるのだ。台所にあるのは、赤外線ヒーターだけ。

 台所って最初は寒いけど、ガス台を使い始めれば徐々に暖かくなってくる。

 居間ではホットカーペットを止めたから、厚地フリースのひざ掛けは必須。それで暖かい。

 居間以外の部屋はなるべく使わないで灯油を節約する。

 ほかの部屋で何かをするときは、なるべく昼間、日が当たって暖かいときを利用する。

 夕方以降、居間以外は寒いから、寒さ対策(ジャケットを着たり、帽子をかぶったり)をしっかりする。

 トイレが寒いと辛いので、トイレには小さな暖房があると良いよ。

 寝るときは、布団乾燥機で暖めてから寝る。

 そうすると、朝までポカポカ~。

 朝起きるときは、すぐにモコモコソックスを履き、起きたと同時にフリースのジャケットを着込む。

 その状態で台所へ行って赤外線ヒーターを点けて、愛犬用のお肉を出したり、居間のストーブを点けたり、

 と一通りの朝の準備は出来る。

 よほど早起きするとき以外は、ストーブのタイマーは必要ないのだ♪

 今履いているスリッパはモコモコ系だけど、300円程度で買った安物だ。もっと暖かいスリッパを履けば尚良いだろう。

 窓に対策するとか、ハード面ではまだ何もしていない状態だ。

 だが、泣きたくなるような気持ちはなくなった。

 買った使い捨てカイロも、ほとんど使っていない。

 毎日のように鍋料理を食べて、体を温めるようにしている。

 寒さが厳しい時に、灯油代高騰という試練。

 湯たんぽも売れているらしい。窓にプチプチを貼るというアイディアも聞いた。

 さすが我慢強い日本民族だ。創意工夫でこの苦境を乗り切らなくちゃね。

 寒い、寒いと泣いている人は自分以外誰もいなかった・・・、みたいな。

 「負けるな」と思う。

 

 

 

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新聞よ、さようなら

 我が家が新聞を取り始めたきっかけは、ずばり「折り込み広告」目当てである。

 家の周りにはショッピングモールや電気屋、スーパーなどの郊外店が多く、そのセール情報を得る必要があった。

 新聞の下の方に出る週刊誌の広告見出しを読むのも楽しみだった。

 テレビの番組欄も便利だった。

 けれども、月約3,700円の価値があるのかな?

 このお金のないときに、毎月一定額出て行くお金には精査が必要なのだ。

 そう思った時、

 「新聞イラネ!」という結論に至った。

 社説がウザくなってきたことも、新聞を止める後押しをしたね。

 ちなみにY新聞。

 社説を私物化していないかな。

 政治的意図を感じちゃうね。

 新聞や報道にはニュートラルであって欲しい。

 サービスで頂いた洗剤、ありがたく使ったけれど、やっぱり高いアメリカの洗剤のほうが落ちが良いよ・・・。

 長くお付き合いした後で、さようならは辛い。

 でもね、今年になって、投書コーナーが非常にわざとらしい。

 止めて清々だわ!

 そう思っちゃうよね。

 不要なものにお金は払えません。 

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子供について

 私は子供を産んだことも育てたこともありません。

 それでも、今よりも経済的に余裕があった頃は、子供がいるほうがいいかな?と思ったこともあります。

 景気がどん底の今、子供が欲しいとは小指の先ほども思っていません。

 世間で言う、お金が無いから子供を作らないって、本当じゃないかな。

 子供が好き、働くことが苦にならない、安定収入がある、体が丈夫な人にはわからない事なのかもしれない。

 一方、お金が無くて、将来に不安だらけなのに、夜になると頑張っちゃう人たちって、どういう人たちなんだろう?

 とも思う。

 子供がいないと気が楽というのは、本当。

 先が無い感が強いというのも、本当。

 背中やウエスト周りに肉がついていないのは、子供を産んでないせいかな?と思っていたけど、

 子供を産まなくとも、立派な中年体型になる女性もいる。

 不思議だ。

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生きること

 このごろ、生きることについて考えることが多くなったように思う。

 お正月休みに実家でのんびり暮らして、お小遣いをいっぱい貰って家へ帰ってきた。

 栄養も十分とって、体重も1kgくらい増えたのだけれど、お正月気分は数日で飛んだ。

 貰ったお金も羽を生えたように飛んでいく。

 これから一年、また長い一年が始まった、という思いが自分の中で浮かび上がる。

 人生は短いのだから、楽しく、精一杯生きなければ。

 それとはまた別の思い。

 人生はダラダラと続いていく。

 そう思っていたのは、わずか2年前だったっけ?

 それとも、もっと昔?

 私には愛する夫がいる。愛犬がいる。両親がいる。

 それらの家族と長く生きられること、それだけが心の支えなのだろうか。

 それさえ失ってしまいそうな、重い気分が恐ろしい。

 人は欝になってしまってはダメだと思う。

 コントロール不能になってはダメだと思う。

 生きなければいけないと思う。

 そのためには、どんな精神勝利法を使っても良い。

 現実が苦しかったら、目をそらせば良い。

 生きるためには、もっともっと強くずるくならなければならないと思う。

 そして、生きていることを喜ぼう。

 志半ばにして亡くなった人の死を悼もう。

 とにかく、お金がないことは辛いことだ。

 人はお金なくして生きていけないものなのだから。

 私にはそのことを全く考えないで生きてきた長い年月がある。

 今の私に夢があるかと言われれば、即答できない。

 夢は叶ったのかと言われれば、ささやかながら叶ったことが幾つかある。

 人生はまだまだ続くのに、息切れし、自分は、道端にへたり込んで遠くに見える富士山を見ている気分だ。

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