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2009年2月

Japanese Manufacturer という名の輸出企業

 昨年の世界同時不況、アメリカ経済の破綻によって、日本の自動車メーカーの収益は軒並み大幅ダウンしている。

 半減どころか、80%ダウンとか、半端じゃない数字が報道されている。

 それに加えて円高である。

 ドル建てで何らかの収入を得ている人ならわかるだろうが、個人レベルでも金額が数百ドルになると、円高による収益減を身にしみて実感出来る。

 それが億単位で取引する企業にとってはどれほどのダメージか、ちょっと想像できないスケールだ。

 多くの日本企業が国内の人件費の高さに辟易したのか、自国の国民の民度を独自の尺度で測って辟易したのかわからないが、国内市場に見切りを付け、海外に活路を求めた結果、いざなぎ景気という戦後最大の景気を享受してきたわけだ。

 その間、日本に住む普通の国民達は好景気を味わうこともなく、ジリジリと生活が苦しくなっていくのを感じ、それでも輸出企業がなければ日本は成り立たないのだと洗脳されたまま生きていたのかもしれない。

 国内市場は疲弊し、日本人達は少しずつ「何故だ?」という疑問を持ち始めた。

 そして、今回の世界恐慌が起きたわけだ。

 私は壊滅的なダメージを受けた自動車メーカーに一切同情の気持ちは持たない。

 彼らは彼らの選んだ道を選び、そこでコケたにすぎない。

 不要となった派遣社員という名の日本人従業員を紙くずのように捨て、今更、国に何とかして欲しいとか助けを求めている姿は汚く、実に滑稽だ。

 国内の市場を無視した企業に明日はない。

 ローンやリボで物を買うアメリカ人と違い、日本人には日本人の買い方があるし、それに合わせて市場を開拓することだって出来るはずだ。

 その努力を厭い、国の政策で自国の国民に商品を売りつけようとするようなメーカーは日本人には必要がない。

 日本人のために商品を作ることを止め、グローバルな商品展開をするメーカー達は、もはや日本企業とは呼べない。

 国籍が日本であると言うだけの、輸出企業の一つに過ぎない。

 そのことによって、日本人にとって、日本のメーカーは韓国やアメリカ、ヨーロッパのメーカーと同列の意味しか持たない存在となってしまった。

 日本人はその中で一番良いと思う物を買えば良い。

 輸出企業が無国籍に動いているのと同じように、日本人もメーカーの国籍など無視して買い物をすべきなのだ。

 そして、大事なのは、日本に根を下ろし、日本人を雇っている企業にお金を払うことだ。

 それは色んなメーカーの商品を扱う量販店であったり、通販ショップであったり、百貨店であったりするかもしれない。

 日本人が日本のメーカーの物を買わなくても、量販店で外国のメーカーの物を安く売っているならそれを買えば良いだけのことだ。

 そうすることによって国内の内需は活性化する。

 買う商品は日本メーカーである必要などどこにもないのだ。

 それは車にも言えることだ。

 新車を買わなければメーカーは困るだろうが、中古車が売れれば中古車屋は儲かる。

 内需を上げるために、日本国籍の輸出企業は全く関係ない存在だ。いてもいなくても同じという事だ。

 彼らが日本人を雇おうともせず、海外工場で生産した”オーバークオリティじゃない”というところのグローバルな規格の製品を日本の市場で売ろうとするなら、誰が買うか。

 チープな規格になった日本車など、全く無価値だ。

 日本規格というプライドを捨て、ヨーロッパ人および、ヨーロッパの旧植民地系の国々(北米と日本以外の殆どの国じゃないか・・・)の人々に一流と評価されることが決してないブランド価値を持って、どれほど行けるかやってみれば良いと思う。

 日本人が愛した日本のメーカーは各自のガレージに存在する古い自動車であり、バイクであり、電化製品であり、その精神は今でも日本人の心の中に生きている。

 それを知らずに育つ世代の日本人にとって、日本メーカーとはどんな姿に映るのだろう?

 戦後、復興のため、自国の国民が楽しい快適な暮らしを送れるよう、日本のメーカーは日本人と共にあらゆるものを作りだしてきた。

 会社を興してきた人々には、その精神があった。

 だが、今の経営者達はその精神や志を受け継ぐことを嫌い、元々日本にあった日本的な精神とは違う、西欧型のドライで合理的経営哲学に飛び付いた。

 ある意味、日本人も含め、全世界の消費者を馬鹿にしているとも言える。

 昔、ある人が言っていた。

 「メーカーが物を作らなければ、消費者は物を買うことが出来ない」というような事だ。

 消費者には選択の自由などなく、メーカーにあてがわれた物を買うしか出来ないという意味だ。

 なんという傲慢な考え方だろう。

 私はもう、日本の輸出企業がどうなろうが気にすることはないだろう。

 より多くの人々がそう感じているかも知れない。

 日本国内の内需の回復の仕方によっては、量販店の社員の給料が大メーカーの社員の給料よりも高くなるということだって起こり得るのだ。

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化粧水で失敗

 去年、私が独自に考え出した節約法に、セール中やアウトレットの化粧水を買う、ということがあった。

 中身にはこだわらない、ということで。

 特にアウトレットは素晴らしかった。

 一本2,000円程度の化粧水がアウトレットで半額で買えるのだから、これはラッキー♪と言うしかない。

 意外と残っているし・・・。

 そのサイクルが狂ったのは去年の秋以降だったろうか?

 アウトレットにお目当ての化粧水が出なくなったのだ。

 しょうがない。

 あの当時、お金がなくて困っていたが、頑張って一本2,400円程度のとトラフグコラーゲン入り化粧水を、しかしながらセールで1,000円台で購入。

 プラス、セールで保湿用にビタミンEクリームも買っておいた。

 毎年、冬にはおでこや鼻筋あたりの皮膚がぽろぽろ剥けちゃうから、保湿クリームはどうしても必要だった。

 その結果、お正月も肌荒れ知らず。

 私が愚かだったのは、それを全面的にクリームのお陰だと思ってしまったことだ。

 セール価格がなくなっても、頑張って3,000円台のクリームを買った。

 そして、法則に則って、その時セール価格になっていたQ10化粧水を買った。

 しかも、二本も・・・。

 しかし、トラフグの化粧水からQ10の化粧水に変えた途端に肌荒れが始まった。

 え?Q10って肌に良いんじゃなかったの?

 最初、体調が悪いからとか何とか自分に言い訳していたが、夫に肌荒れを指摘された上、「使えない物を使っていたってしょうがないじゃん」と言われ、トラフグ化粧水を正規の値段で買い直すことに・・・。

 効果はすぐに出た。

 DHCのトラコラ・ローションはとっても良い感じ。化粧水でありながら、ちょっぴりねっとり感があって、いかにもコラーゲンが入ってそうな質感である。

 Q10ローションも勿体ないので、トラコラ・ローションをつけた後につけている。

 これほどまでに化粧水によって結果が違うとは・・・。

 驚いた。

 だって、同じDHCだし、値段も殆ど変わらないのだから。

 今回、というか、たぶん毎回、同じ失敗を繰り返す理由は、心の中に「どれでも大差ない」という物作りを舐めきった考えを持っているからに違いない。

 いつも「物作りとは・・・」なんて語っている割に、自分がコレではダメだ・・・。

 せっかく良い物を巡り会っても、その価値をきちんと理解せず、軽く捉え、馬鹿馬鹿しい間違いを犯す。

 良いと思ったらとことんそれに執着することだ。

 それが自分のメリットになる。

 それが出来ないのは、ロジックではなく、フィーリングで生きていることの証とも言えるのかもしれない。(笑)

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40代女性の体型って・・・

 私は若い頃は大部分の時代はポッチャリで、一時すごく太っていた時もある。

 まぁ、若い頃から一貫しているのは、下半身デブ、そしてくびれたウエストラインということだ。

 これだけは変わらない。

 ダイエットに苦労したり、自尊心が傷つくような嫌な思いをしたこともあったが、大好きなケーキ、パフェ、チョコレート、パスタ、和菓子等々を好きなだけ食べることが出来たことは確かである。

 その私は今、中年太りとは無縁で生きている。

 くびれたウエストラインというのは、全体が痩せて、ウエストが60cm前後になって初めて生きてくると言うことがわかった。

 それとは逆に全体的に痩せていれば気にならなかった寸胴体型が、中年になって太り始めると凄いことになるのかもしれない。

 多くの同世代の女性が「体型の崩れ」を言うが、自分に起きていないことに共感できない。

 ウエストのくびれを求めて色んなダイエット商品が売り出されているが、モニターさんのデップリしたお腹周りを見て驚愕するのみだ。

 それを見て思うことはただ一つ、

 「相当食べているな」と。

 食べるから太る。

 40代になっても健啖家であることの証だろう。

 どんなに食べても胃袋が許容するから、若い頃と同じだけ食べることが出来る。

 こういうタイプは元気ではあるが、血管系の病気や内分泌系の病気に気をつけなければならない。

 先日、ランズエンドのホームページで新商品の紹介があった。

 中年太りした女性が着てもシルエットが綺麗な服を作ったということだ。

 その開発に当たって事実に基づいたボディを作ったとのことだ。

 寸胴。腕が太くて短い。厚みがある体・・・。

 自分がそういう体であったら不幸なのか幸せなのかわからない。

 順当に年を取り、結婚して子供を作り、豊かになり、余裕ある生活を送っている中年女性ならそれで幸せなのかも知れない。

 あのカトリーヌ・ドヌーブさえ中年太りして見事なオバサン体型になっていた。

 要は中年まで生きてきて、自分が何を得て、何を失ったかということに尽きるだろう。

 得た物が大きければ、そのために失った物に頓着する必要はないはずだ。

 自分が多数派に属していれば尚更のことだ。

 若い頃太っていた自分が少数派であったように、40代でほっそりウエストラインを持つ自分も又少数派だ。

 これを面白いと言わずして何と言おう。

 絶対に自分は多数派に入れない。

 生涯マイノリティ・・・。

 こんな私の楽しみは、ワコールのフィット・ナビに自分の年齢、身長、体重などの数字を打ち込み、「同世代の人と比べると、10歳以上は若いグッド・バランス。しかも、くびれたウエストがすばらしいバランスの取れたプロポーションです」というアドバイスが出てくるのを見て至福の喜びを感じることだ。

 病んでいる?

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匂いの記憶

 私の中にあっていつまでも消えない景色がある。

 それは今は亡き祖父母の家だ。

 眠れない夜、その家のことを考えているときに、細部まで思い出すことが出来たことに驚きを覚えた。

 最後にあの家を訪れたのは、新しい家に建て替える前だ。

 私が学生の時だから、今から20年以上も前のことだ。

 新しい家が建つ間に祖母が亡くなったのだから、あの家は祖父母が揃った最後の思い出の家でもあった。

 私はよく台所で祖母の近くにいたような気がする。

 台所には地下の保存庫へ行く蓋が床に切ってあった。

 ついにその中に入ることはなかったのであるが・・・。

 そして台所のガラス戸越しにぴかぴかの廊下が見えた。

 昔の作りだから、脱衣所がなく、お風呂に入る前の祖父が下着姿でうろうろしていたことを思い出す。

 その時、あの家の匂いがふいに思い出された。

 トイレの芳香剤と洗面所に置かれた歯磨き粉の入り交じったような匂いだ。

 結婚前の叔父が使ったばかりの洗面所の匂いだったのかも知れない・・・。

 祖父母と私の絆がどんなものだったのか自分では解らない。

 取り立ててかわいがられた記憶もないのだ。

 ただ、私は祖父母の家に滞在し、祖父母達の日常生活の中に組み込まれ一日を過ごしたに過ぎない。

 新しくなった祖父と叔父一家の家には何度も行ったのだが、私の中では、今はない祖父母の家が消えることなく存在し続けている。

 祖父母の家の匂いは懐かしい、私にとって大事な古き良き時代の思い出だ。

 二度と帰らない子供時代の思い出。

 現実にはもう存在しない物が、こんなにも鮮明に思い出されることが、今更ながら不思議に思える・・・。

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体重管理の難しさ

 先日、むくみや不可解な消化不良を解消すべく水を飲み始めたところ、体重は増えた分だけ減った。

 のであるが、お通じが良くなったため、ベスト体重から更に減り気味である。

 そして、何故か体がだるく、夏バテみたいな感じになってしまった。

 顔が冴えない。

 オイリー肌が今は乾燥して艶がない感じ。

 身長160cm少し。冬のベスト体重は51.8kgで夏のベスト体重は51kg弱。

 夏の体重が51kgを切ると脱力感が出てくる。

 冬の体重は今回最大53kgまで増え、本当に本当に困った。

 このまま更年期の体重増加になるかもしれないと不安だった。

 が、積極的に水を飲むようにした結果、体重はすぐに52kg、そして51.8kgに下がった。

 前のように朝食べたものが夕方まで胃に停滞する・・・ということもなくなった。

 今日はもっと下がっていた。

 去年はもっと体重が少なかったが、ダルくはなかった。

 そして、去年よりもウエスト周りのサイズが減ったような気がする。

 この脂肪は足に落ちたのだろうか?

 ウエスト周り、背中周りが痩せると一気に疲れやすくなる・・・・・・。

 私のような中年、更年期年代の女性でウエストが細いのは見た目には良いが、生きて行くには若干都合が悪いのではないだろうか?

 ガッシリと胴が太いオバサン体型は、いかにも体力がありそうに見える。

 ぷよぷよとした脂肪であっても、重なるとズッシリと強い塊になるはずだ。

 その塊が体を支えているのだろう。

 今日は脱力感を解消するためにケーキを買って食べた。

 一日に二個。

 明日、あさって、体重は変わっているのだろうか?

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樹海の取材を見て

 何ヶ月に一回程度の割合で、樹海で自殺志願者にテレビ関係者が突撃取材をし、自殺を思いとどまらせるような切り口の番組を見ることがある。

 あれは一体何なのだろう?

 下請けの製作会社のスタッフとおぼしき人物が、樹海付近のバス停辺りで張り込み、その場所には不釣り合いな背広姿のサラリーマン風の人や、所在なげにグルグル歩き回る人を見つけるとロックオンし、最終的にはインタビューを取る。

 何故、自殺する気になったのか?

 その辺りの事を聞き出そうとするのだが、番組を見ている視聴者に詳しい話や背景が明らかになることはない。

 そして、何とか一旦は自殺を思いとどまらせる。

 駅まで送り、番組は終わる。

 しかし、私は思わずにはいられない。「出演料、取材協力費はちゃんと払われたのかな?」と。

 せめて数日間、その人が人間らしく生きられるだけの額が与えられたのかな?と。

 最近見た番組は特に酷かった。

 派遣切りされ、行き場を失った男性が出ていた。

 局側の誘導により、実家へ助けを求める電話をするのだが、電話に出た後妻らしき女性のけんもほろろなこと。

 死にかけている先妻の子供に手を差し伸べることはなかった。

 あたかも自分がそうであったかのように、「食べるためになんだってしなければダメなんだよ」と突き放した。

 実家で他人が父と再婚すれば、実家は実家ではなくなる。

 樹海まで落ちる人の多くは、自分自身ではコントロールできないことで運命が暗転していくものなのかもしれない。

 一つでもセーフティネットがあれば落ちないで済むものを、ある人は幾重ものセーフティネットを張り、ある人は持っていない。

 その中には家族愛という名のセーフティネットもあるだろうに。

 自分の子供をセーフティネットとしている親だっているのに。

 この自殺を一旦中止した男性はどこへ行くのだろう?

 実に残酷な仕打ちである。

 世間で打ちのめされ、樹海へ来てもテレビ局の気まぐれで打ちのめされる。

 生きていても良いことがない・・・。

 そういう人生もあるのだと思った。

 それをテレビを通して世間に晒し、見せ物にするだけで終わるテレビ局。

 「次はお前かもしれないよ」

 ジャーナリスト面して人の心に土足で入るマスメディア、結局は金のために動くモラルなき業界に、私は心の中で毒づいてみる。

 テレビ局もただ無責任に垂れ流すだけで良いのだろうか。

 そこに人情はないのだろうか。

 放送を見た人々がどう思うが、自分たちはどう思われるのか、などなど、お構いなしの無能で無神経な番組には毎度の事ながら呆れるものだ。

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田舎のネズミと都会のネズミ

 昔読んだ童話の中に、「田舎のネズミと都会のネズミ」という話があったように思う。

 都会に出てきたネズミが、都会の雑踏や交通にビックリして逃げまどうようなシーンが思い起こされる。

 絵本の中で小さなネズミがうろたえ、右往左往する様は胸が痛くなるような光景だ。

 でも、本当に哀れだったのは都会のネズミの方だった。

 帰るふるさとを持たない都会のネズミは根無し草のように都会を漂い、野垂れ死ぬだけのように見えた。

 それは今の人間社会にも当てはまるのではないだろうか。

 地方から都会へ出てきて働き、都会に家を持つことが出来たら人生のゴールに足を踏み入れたのも同じだ。

 しかしながら、ローンを払っている最中は、まだゴールしたとは言えない。

 都会に根を下ろすことが出来るかどうかが問題なのだ。。

 それが運命の分かれ道だろう。

 更にもう一つ、都会生活に挫折したとき、帰る田舎があるかどうか・・・。

 それは運命を過酷に分ける道しるべだ。

 「帰ってこい」と言ってくれる親兄弟を持たない人々にはセーフティネットはなきに等しい。

 一度落ちたら底まで落ちてしまう。

 しかし、田舎に家があれば話は違う。

 都会で面白おかしく暮らせた時代と違い、今の日本では、同じ貧乏なら田舎で両親と同居してひっそりと暮らす方が豊かな生活が出来るのではないか?

 田舎では食えないからと都会へ出たところで、一生賃貸住まいでは一生自転車操業だ。

 それよりも田舎の実家で昔ながらの大家族で暮らす方がより合理的であるし、いざと言うときのセーフティネットはより丈夫になる。

 不景気や世界大恐慌で疲れ果てた日本において、リストラなどの憂き目に遭った人々は、今はひとまず羽を休め、次なるステップへ行くために緊急避難をする時なのではないだろうか。

 助け合う家族を持つ者は助け合い、何とかこの危機を生き残ることが大事だ。

 一家族で動くなら、車を一台くらいは持てるかも知れない。

 工夫することでお金を節約することも出来るかも知れない。

 何よりも孤独に押しつぶされ、精神から先に壊れていくことを防げるのではないだろうか・・・。

 家族愛、人情が、これからの日本を支える力になるような気がする。

 その力が内需を支えて行くだろう。

 蓄財や投資、情報でもない、日本に昔からある「家族愛、親子愛」がこれからは何よりも大事な財産になることだろう。

 自分は今、何を持っているのか。

 今ある物を遣り繰りして、今後しばらく続くであろう厳しい時代を乗り切るしかないことは確かである。

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年が明けて景気は?

 去年、11月の売り上げ減少幅は過去最大で、それが長く続けば夫がよそに働きに出なければマズイだろうという水準だった。

 12月は11月よりは辛うじて良く、その少しの挽回を心の支えに年越しを迎えた。

 年末年始、年越し派遣村の報道を見て、「まだまだ日本は、大量解雇に驚き、それを異常な事態として捉えるマインド、それを助けなければダメだという人情、そして何よりも助ける余裕があるのだ」ということを強く感じた。

 明けて2009年。

 幸いなるかな。我が家に訪れた未曾有の経済危機はひとまず止まった。

 11月前の水準に戻った。

 苦しいときに一生懸命にもがき、努力した成果なのかもしれない。

 それはとても嬉しいことなのだが、自分たちの景気が回復すると、周りのことがとても気になり始める。

 自分たちの売り上げが回復したのは、日本の景気が下げ止まったところで落ち着いた事を表すのか、たまたまなのか計れない。

 ひとつ考えられるのは、アメリカ発の世界同時不況が起きたとき、多くの日本人の心の中で「安全装置」が発動し、ブレーカーが落ちて停電した状態のようになったのではないか?ということである。

 本来、お金を使うことが出来る層までがブレーカーを落として、ショートから身を守ろうとした。

 それらの人たちが年明けて、一斉にお金を使い始めた。

 そういうことはあるかもしれない。

 駅前のアウトレットにも車が戻ってきた。

 ガソリンや灯油の値段が安くなり、庶民の生活にゆとりが生まれたことも大きいだろう。

 そして、何よりも今年は総選挙の年である。

 国民の気持ちは去年の時とは同じではない。

 日本人は耐える国民である。

 目標を持つと強いところもある。

 一人一人の国民が、半端な政権や馬鹿馬鹿しい国会や総理大臣にさじを投げ、自力で生きる道を探り出したのだと私は思っている。

 国民は現自公政権を見放したのだ。

 「お前らがそういうつもりなら、俺たちは俺たちでやる。自分の身は自分で守るわ」

 そう思って生きている国民は多いだろう。

 そう思うことが出来ないのは、今、食えていない国民だけである。

 派遣切りに遭い、身を寄せる実家さえない、行き場を失った人々に代表されるそれらの人々は、どうにも動きようがない境遇にある。

 これらの人々は、残念ながら、国の経済を動かす大多数には現在入っていない人々で、又、それらの人々が日本人のごく少数であるからこそ、日本にはまだまだ力が残っているとも言えるのである。

 政治の舞台裏、政・財・官の癒着を知ってしまった国民が、もはや国や政府に多くを期待することはない。

 あるのはいかに政府や官僚の好きなようにされず、国民が奴隷のように扱われることなく、楽しい人生を生きられるかどうかを考える醒めた目線だけだ。

 「もう騙されないぞ」と。

 国民が国を信用しないことは悲しいことでも嘆かわしいことでも何でもない。

 正常なことだと私は思っている。

 安定した職を持ち、財産を持ち、年金を得られている人々こそ、国に厳しい目線を向け、自分たちの権利や自由、財産が脅かされることがないように監視しなければならない。

 つまり、国に対してもっともっと文句を言え、言いなりになるな、ということである。

 そのことが、巡り巡って、気の毒な派遣切りにあった人々や、若くて食えないでいる人々を救うことになるはずなのだ。

 今後間違いなく、日本を引っ張っていく牽引力になるのは、現在お金を持っている家族なのだから。

 それらの人々の稼ぐ力や貯金が日本の財産だ。

 しかしながら、国民は国に乗せられ、救い主や正義の使者になる必要は全くない。

 それはどの党が政権を取っても同じ事である。

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体重が減った

 去年の冬から体重が増加し、よくある更年期の女性が言うような「食べる量は変わっていないのに体重が増えて」なんてことを本気で考えるようになった。

 食べる量が変わらないのに?

 そんな馬鹿な。

 そう思ったから、夜寝る前に食べるお菓子やふかし芋の量を減らしたし、ご飯もお腹いっぱいになって眠るほど食べることは止めた。

 結果、ご飯の量は茶碗半分程度となった。

 おかずを先に食べるから、それでも腹10分目だ。

 それでもめざましい効果は出なかった。

 サイズを測るとウエストは太っていない。太ったのは主に足とヒップ周りだ。

 幸いかな、脂肪太りしているわけではない。

 そこで去年の手帳を出してきて、きっちりと体重、食生活などを見比べてみることにした。

 大きな穴があった。

 冬になって寒くなってから、水を飲む量が激減していたのだ・・・。

 寒い廊下に出て階段を上り、二階の廊下の突き当たりのトイレに行くのは確かに辛い。

 でも、それじゃダメだったのだ!!!

 おとといから水をがぶがぶ飲み始めた結果、体の循環が良くなったような気がする。

 トイレに行く回数は増え、便通も良くなり、ガスもスムーズに出るようになった。(いわゆるオナラね)

 その結果、体重が減った。

 冬の理想体重+200gにまで落ちた。

 「もう良いでしょう」という感じ。

 ウエスト60cmなら、去年の冬よりもウエストは細い・・・。(何故だ?)

 水を飲んで体外に水分を排出する効果が出るなら、サプリは要らないなぁ。

 DHCのサプリ類は去年の夏以降止めている。お金がなかったこともあるし、同じ会社の製品を毎日長くとり続けるのも不安になったためだ。

 「ああ、良かった」と思った。

 この程度の体重増なら問題ない。

 何よりも、今まで通り食後のデザートのクッキー1,2枚とか、寝る前のちょっとしたスナックとか止めないで済むのが嬉しい。

 食べて、出す。

 これが大事なのだろう。

 あと、座りっぱなしではなく、掃除をするとか洗濯物をたたんでしまうとか、アイロン掛けをするとか、家事をすることで体を動かせば一石何鳥ともなる。

 とりあえず危機は脱出したかな、と思った。

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体重が増えた・・・

 去年から家でささやかなマイビジネスをスタートして、コンピューターの前で座っている時間が激増したため、(一日数時間)体がいつも浮腫んでいるような気がする。

 普段、夏場に比べると冬季は0.8kg程度の体重増があるのだが、今年は1.4kg増で、生理の時は更に数百グラム増えた・・・。

 寒さのため、体重をちゃんと測定してこなかったツケなのかもしれない。

 幸い、ウエストは61cm前後をキープしている。

 太ったと感じるのは足とへそ下周りである。

 座りっぱなし生活によって、便通も悪くなったような気がする。

 その結果、浮腫プラスお腹ぽっこりに見舞われる羽目になったのだろう。

 白髪も増えた。

 そのことを私は悔いてはいない。だって、お金儲けの方が大事だもん。

 でも、決して楽観視は出来ない。

 更年期と呼ばれる年代でズンズン太っていく女性は多いのだから。

 浮腫とり体操は今はサボっている。ウエスト周りはもう浮腫まなくなったから。

 足に効く浮腫取り体操がこの世に存在するとは思えない・・・。

 まずは体重計を持ち歩いてでも体重を計り、チェックすることから始めた。

 そうやって管理して、ある程度までは戻したい。

 が、痩せれば良いってものでもない。年齢を重ねれば、痩せていること=健康なこととはならないのだから。

 私が抵抗力がなく、すぐに風邪をひいたり寝込んでしまうのは、上半身の肉のなさからきているに違いない。

 手首、ウエスト、首周り、細い部分は寒さに弱い部分でもある。

 下半身だけは例外で、足が太いにも関わらず冷え性なのだ・・・。

 今日もお菓子をチョビチョビ食べる。

 太りたくないから、お菓子を好きなだけ無造作に食べる日はもう来ないかも、なんて思うことがある。

 若いとき、人の何倍も食べたのだから良いのかな~?なんて思いつつ。

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ディスカウントショップ考

 私の住んでいるエリアに幾つかの郊外型のお店が集まっている道がある。

 会員制のホールセールから、100円ショップを擁する激安ディスカウントショップまで、いろいろだ。

 店ごとに見事に来る客層が分かれている。

 今回、初めて、その激安ディスカウントショップへ足を運んだ。

 開店から2年くらい経ったろうか?

 昔ながらの安売りショップ的な商品の陳列で、広いために見るのに疲れた。

 商品は沢山あるように見えるが種類は少ない。

 付き合いで1000円以下の衣料品のコーナーも見たが、げんなりした。

 そこで真剣に選んでいる人を見て、更にげんなりした。

 通販で1,2万の衣類を購入する私にとって、500円のパンツを試着して買う人の気持ちはわからないのかもしれない。

 お菓子を幾つか買ったのだが、有名国産メーカーの箱菓子の近くに、そっくりの外箱をした類似商品が山積みされていた。

 一箱100円程度安い値段で売られていた。

 それを無造作に手にとって買っている男性客を見掛けた。

 お菓子の製造は中国などの外国かもしれないと思った。

 我が家がよく買うペットシーツの値段も見てきたが、年末年始のセールでDIYショップで買った価格よりも200円ほど高い値段であった。

 もう二度と行かないと思った。

 その横に100円ショップがあったので、面白そうだったので覗いてみた。

 ありとあらゆるものが100円で売っている。そういう感じだ。

 本当に生活に必要な雑貨や文房具、オシャレ小物さえ100円(税込105円)で売っているのだ。

 とても不思議な感覚に襲われた。

 まるで悪いお酒を飲んで酔ってしまったような、めまいがする感覚だ。

 一個100円のもので、ヘタをすればすべての生活必需品を揃えられるかも知れない。

 物の値段って何だろう?

 物の価値って何だろう?

 100円の生活必需品で構成された生活って、何物なのだろうか?

 そんな時、決まって、心の奥底の方に、ゴーーーーーっと言うような奈落の底で荒れ狂う激流の音が聞こえてくる。

 人は何かに掴まっていなければ、その激流に飲まれ流され、海の藻屑と消えていくだろう・・・。

 その何かとは、100円ショップで買った物では決してないと私は思う。

 お金は人間社会で尤もわかりやすい価値の基準である。

 100円で売っている物と1000円で売っている物の価値は同じではあり得ない。

 不況の今、少ない予算で生きていかなければならない人々の買い物欲を満たすために、ディスカウントショップは存在する。

 100円ショップには、それらの人々の欲望が渦巻いている。

 それは正のエネルギーなのか、それとも負のエネルギーなのか、私にはわからない。

 1コインと言えば昔は500円玉を指した。

 今、それが100円を指すとすれば、我々の暮らしは明らかにそこまで落ちたのである。

 没落したのである・・・。

 楽しいはずのショッピングで重い疲労だけが残った。

 

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医薬品の通信販売の大幅規制強化とは?

 2009年の6月に医薬品の通信販売に関する規制強化が施行されるという。

 官による自由経済への妨害行為とも言えるような信じられない暴挙である。

 何故規制されなければならないのか?

 それは、医薬品を含むすべての「通販」に対する既存の販売形態の宣戦布告と呼んでも良いかもしれない。

 既存の販売形態とは、店舗を持ち、そこで物を売ることを言う。

 薬屋ならマツモトキヨシ、サンドラッグなどが大きいところだろう。

 それらの店舗は大きいが故に、小規模な店がコストをかけず通販で安い値段の薬を売るような芸当は出来ない。

 どうしても場所代、建物代が薬の値段に乗ってしまうからだ。

 元手をかけずにぼろ儲け、みたいな通販の形態が憎くて憎くてたまらないのだろう。

 消費者はネットを使って一番安い値段で薬を買うことが可能だ。

 そのとき、売っているお店の地域や建物などは殆ど関係ない。

 この規制強化が行われれば、(多分、行われる)消費者は、この「一番安い薬を買う権利」を奪われることになる。

 病院の薬局で処方するような薬が通販で買えないというなら話はわかるが、一般的な風邪薬が通販で買えないというのはどうも解せない。

 病院でしか買えない、処方箋がなければ買えない薬も、処方箋のコピーを提示すれば通販で買えないというのもおかしな話だ。

 身分を証明できればまかり通る世の中なのに、薬品だけが別というのはおかしな話だ。

 それが証拠に、店舗を持つ一般的な薬屋で処方箋の薬が買えるのだから。

 こちらは以前に規制緩和されている。

 規制緩和、規制強化、どちらも店舗で対面販売をする薬屋に有利になる話であることが実に興味深い。

 更に、驚くべき事は、特定の条件を満たせば、コンビニでも風邪薬などを販売できるという話も同時に出ているのだ。

 どの場合でも、私のような一般消費者は蚊帳の外で、法案が決まってから知らされることが殆どではないか?

 そのことによって侵害を受けるはずの消費者の権利は考慮されることはない。

 一部の薬害被害者とか一部の薬屋の団体とか、コンビニとか製薬会社とか、国会議員に接点のある人々だけが何らかの恩恵を受けられるって、可笑しくないだろうか?

 楽天に集まってきて薬を安く提供している薬局は地方の小規模な薬局であることが多い。

 私が以前風邪薬を購入した薬局は九州であった。

 それは、地方の小規模な薬局が通販と言う販売形態を採ることで初めて可能になる取引ではないか?

 地方再生とか口では美味いことを言いながら、通販という販路を潰すことでビジネスチャンスを奪う。

 それが国が大きな販売団体と結託して行っていることなのだ。

 ネットの通信販売は又、新聞やテレビという既存の広告媒体を経由しないで商売をしている性質上、マスコミなどのバックアップもなきに等しい。

 広告主でもないネットのショッピングモールをサポートする理由などないからだ。

 それよりなにより、一般消費者の選択の自由や権利を奪い、特定の者だけが利益をむさぼる。

 こんなことがまかり通る日本であってはならない。

 内需の拡大を声高に叫びながら、やっていることは国内の自由市場経済に対する妨害そのものだ。

 既得権益だけがいつまでも得をし、新興の力のない者は、市場から追い出される。

 初期投資が少なく始められるネットビジネスに国の規制が入ったということは、初期投資に大金を掛けられる、一部の人間だけがビジネスをスタートさせることが出来る、という事にならないだろうか。

 これは自由経済、民主主義、すべてを否定している。

 争うパイの面積が小さくなればなるほど、このような醜い横暴な、到底納得できないような悪質な規制強化、おかなしな規制緩和が行われるのだろうか。

 どうすれば、このような世界に終止符を打てるだろうか?

 選挙で政権が変われば、変わるのだろうか?

 変わるのもなら変わって欲しい。変わらなければならないだろう。

 官が民をがんじがらめに規制し、思う通りにコントロールし、一般の国民を飼い慣らされた家畜のような存在におとしめることを決して許すことは出来ない。

 

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電気料10000円増について

 なんやかやでエアコンと灯油ストーブ、布団乾燥機、加湿器の併用を始め、一月の電気料は昨年と比べて10000円も増えていた・・・。

 灯油は1リットル80円を切っているとはいえ、電気料+灯油代が暖房に掛かる費用である。

 この10000円のお陰で暖かなお布団で朝までぐっすり眠れる毎日だ。

 部屋が異常に冷えていた状態で寝ていた去年、起きると寒風の吹き荒ぶ中に顔をさらしたかのような疲労感があった・・・。

 寒さはそれだけで人を疲労させるものなのだろう。

 一晩中エアコンをつけて寒い布団で寝たこともあったが、電気代が掛かる上、疲れが取れない非常にマズイ方法だった。

 部屋が乾燥することで喉にも悪く、そのせいで年末風邪で寝込んでしまったということさえ考えられる。

 ベストなのは、寝るまでの数時間エアコンで部屋を暖め、寝る直前にお布団を暖め、そして暖かい乾燥した状態の布団に入りエアコンを止めることである。

 朝起きた時、寝室は寒いのだが、体は温まっている。

 起きる時のポイントは、すぐにモコモコ靴下を履き、それから布団から出て、ニットのカーディガンなどを羽織ってから寝室を出ることだ。

 体は足下から冷える。

 そして、予め暖められた居間へ直行する。

 最近までエアコンをタイマーでセットして、起きてからストーブに付けかえていたのだが、電気代が思った以上に掛かっていたため、エアコンを止めてストーブ一本で行くことにした。

 灯油ストーブのタイマーの欠点は、30分経過すると自動的に消えることだ。

 その30分の間に起きなければ意味がなくなる。

 冬、快適に、人間的に暮らすために電気代が10000円増えることは仕方のないことだと思う。

 必要経費と言っても良いだろう。

 問題なのは、収入が減ってそのお金を出すのが惜しくなったり苦しくなることなのだ。

 節約と引き替えに身を削るような苦しみを味わうのは辛い。

 貧乏が身にしみるとはこのことだ。

 そして、お金をセーブすることだけに全神経が集中し、注意散漫になり、ろくな事が起こらない。

 それを身をもって経験した・・・。最低だと思った。それで目が覚めた。

 お金は貯まるときには貯まる。出て行くときには羽が付いたように飛んでいく。

 なるようにしかならない。

 人生とは必然なり。

 と達観できたらどんなに良いだろう。

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しまむらの服とユニクロの服

 しまむらの服とユニクロの服が今売れているらしい。

 不景気ならではの現状である。

 どちらも安い服を売っているという点で共通している。

 ユニクロの服は前に買ったことがある。今とは少しラインナップが違っていた時代である。

 男性用靴下とTシャツ、ボクサーパンツ、トレーナーを買った。

 靴下は夫がダメ出しをした。内側の縫い目がゴロゴロして履き心地が悪いと言うのである。

 それでも捨てずに裏返して履いていたのには恐れ入ったが・・・。

 ボクサーパンツは柄によって布の質感が全く違った。

 これも半分は布が堅すぎるという理由でダメ出しされた。そして、こちらは履かれずタンスの肥やしとなった。

 Tシャツとトレーナーは今でも着ている。(ただし、汚れても良い作業洋服として)

 婦人用では以前インナーとしてキャミソールを買った。これはとても良かった。

 ただし、取り立てて安いという程でもなかったような気がする。

 ユニクロの服の特徴は、ランズエンドやエディバウアーを意識したと言うか、パクッた品揃えだと思っている。

 タートル、セーター、フリース、すべてがそう見える。

 今までの日本の服飾市場にはなかった「定番品」を買えるメーカーとなっている。

 流行に左右ないベーシックなラインが中心だと言って良いだろう。

 ブラジャーなしで着られるキャミソール、タンクトップも、ビクトリア・シークレットなどには前から存在した。

 ただし、色だけは真似できないようだ。

 染料の値段の問題があるのだと私は推測している。

 矢張り、ランズエンドなどは発色が良い。ユニクロの色には必ず黒が混じっているような、そんな気がする。

 そして、そういう色の方が日本の市場では受け入れられるのだろう。

 次にしまむらである。

 しまむらの服は新聞チラシでしか見たことがないが、こちらはユニクロのベーシック路線とは全く異なる、古くは原宿あたりに沢山あった「流行パクリものショップ」と非常にテイストが似ている。

 やや下世話でドギつめのデザイン、色が売り物なのだろう。

 今流行っているファッションのモロパク廉価版に他ならない。

 安っぽいが、見た目には流行のファッションで、服を長持ちさせようなどと考えない若い人にはピッタリなのだろう。

 昔からそういう需要はあった。

 ファッション雑誌に載るようなブランドの服は格好いいが高い。

 それをパクった廉価版があれば買いたくなる、オシャレをしたい乙女心は今も健在なのかもしれない。

 下着の雰囲気も、多分、ビクトリア・シークレット辺りがパクリの手本で、トリンプ、DHC、ユニクロ、そしてしまむらとそれぞれが自分たちの客層に即した物を上手くパクって取り入れているのだと思う。

 しまむらの服はモテ系。

 ユニクロの服は・・・?微妙だ。エコとか小うるさい事を言いそうなイメージがある。

 ベネトンとは違うが、なにか一つ服には関係ないウザイ要素が入っている、そういう感じだ。

 私はユニクロもしまむらの服も着ない。

 値段が安いからと言って、個性的でもない服を着たいとは思わない。

 その値段も、本当に安いのかどうか疑問だ。

 絶対値はもちろん安いのであるが、原材料、品質に対してどうか?ということには大きな疑問を感じる。

 質が良い物を適正価格で買いたい。

 パクリものではない、オリジナル性の高い物を買いたい。

 色が綺麗な服を買いたい。

 以上の理由で、私はユニクロもしまむらの服も買わない。

 人混みの中に行けば風邪をひくのは目に見えているし、家でネットで時間が許す限りチェックするのが一番効率が良いような気がする。

 先月、素敵な柄のカーディガンを見つけてセールで買った。

 届くのが楽しみだ。

 どこで買ったかはもちろん秘密である・・・。

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